しらさぎ二郎のお仕事遍歴 その4 Los Angeles | しらさぎ二郎のブログ

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写真、しらさぎ家のお料理、マンガ。この分野を中心に楽しくてタメになるブログを目指します。

 

 

 

今日のお花 … 公園の雑草たち。

 

 

 

 

 

 

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さて、しらさぎ二郎のお仕事遍歴、今回は Los Angeles です。

 

1980年代の初め、できたばかりのLos Angeles事務所勤務になりました。主な仕事は新しく取引が始まった米国西部の銅鉱山との連携強化。合わせて米国の非鉄事情調査。

 

私は30代の半ば、二人の子供は小学校低学年。家族で赴任しました。

 

 

 

 

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写真は米国ユタ州にある世界最大の銅鉱山 Bingham Canyon Mineです。この鉱山とは直接仕事の関わりはありませんでしたが、何度か訪問しました。アメリカ西部にはこのようなオープンピットの銅鉱山が沢山稼働しています。

 

 

(写真はネットからお借りしました。)

 

 

 

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私の赴任に先立って、米国西部にある鉱山会社との銅精鉱輸入契約が結ばれました。

San Diegoでの初出荷を祝ってのパーティー。

先方の副社長と一緒です。

 

 

 

 

 

 

1970年代までは、米国内で生産される銅鉱石は全て国内の製錬所で処理されていました。しかしながら旧式の設備では強化された環境規制に対応できず、製錬所が淘汰されて行きました。その結果、1980年頃から、国内で処理できない銅鉱石が大量に輸出されることになったのです。その輸出先は主に日本。

 

ところがその後80年代前半、世界的な不況で銅の国際価格も急落、そのため銅鉱山が次々に閉鎖に追い込まれていきました。我々の契約した相手も例外ではなく、不採算の鉱山を閉鎖、日本向けの輸出も急減。

 

 

 

 

 

 

上のグラフの橙色の棒グラフはアメリカの銅鉱石の生産量の推移を示していますが、80年代前半の落ち込みがいかに大きかったが、お分かりだと思います。西部の鉱山をあちこち回りましたが、ほとんど閉鎖していて人気もなく、気が滅入るだけでした。

 

要はせっかくアメリカ西部に拠点を作ったのに、仕事がなくなってしまったということです。事務所は他の仕事もあって当面残すことになりましたが、私の任期は結局通常より短くなり、2年少しの滞在で帰国することになりました。

 

 

New York でのゴルフ

 

 

 

当時のアメリカの大統領は共和党のレーガン。1950〜60年代の輝けるアメリカのイメージはすでに失われ、我々が行く少し前に「ロス暴動」が起きるなど、国内に貧富の差や治安の問題を恒常的に抱える国になっていました。

 

私がLA郊外のあるチタン加工品の会社を訪問した際のことですが、そこの社長が、「アメリカ社会はすでに成長どころか劣化してきている。自分の子供たちも、父親よりも良い生活ができるなどとは思っていないようだ。」というような話をしたのがすごく印象に残っています。当時日本は不透明な時代に入っていたものの、まだまだ上昇志向が強く、その時はこのアメリカ人社長の話をすんなりは受け入れられませんでしたが、その後日本に帰り時が経つに連れて、ああ、日本もやっぱりそうなって来たのか、という感を強くしました。残念なことですけど…。

 

 

 

 

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LAのダウンタウンから車で30分弱、Alhambraというところで家を借りました。日系の女医さんが老後のために買った家をお借りしたのですが、とても広い家で、家族4人での生活には十分すぎる大きさでした。ガレージも2台分たっぷりの広さでした。

 

この女医さん、ちょうどその頃日本から来た若い新婚カップルの一人が銃撃されて意識不明で自分のところに担ぎ込まれて来た話をして、アメリカまで来てくれたのに大変申し訳ないことになった、と言っていたのを思い出します。例の「ロス疑惑」事件です。

 

 

 

 

 

 

入居してすぐ、ご近所に住むおばあさんが我が家の子供達のためにボランティアで英語を教えてくれることになりました。Miss Cleaverという方で、Minesota州St.Paulの出身。かつては学校の先生をされていたとのこと。毎回手作りの教材を持ってきてくれて、うちの子供たちをとても可愛がってくれました。

 

 

 

 

 

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一番心配だったのは、当時LAには日本人学校は土曜日の補習校しかなく、現地の小学校に入れるしかなかったのですが、言葉のわからない子供達がうまく溶け込めるかどうかでした。

 

最初の日、私が、トイレに行きたくなったら'Where is bathroom?' と言いなさいと教えたのですが、なんということはない、帰ってきたらあっけらかんとして、トイレのことは男の子は 'boy's room'、女の子は 'girl's room'と言うんだよ、と逆に教えられました。

 

我々の子供たちを含めて、公立の学校で英語を話せない外国からの児童が多いのには驚きました。地域によっていろいろ異なりますが、多かったのはベトナム、メキシコ系の子供たちでした。クラスには副担任がいて、だいたいはスペイン語を話せる先生が担当していました。

 

Alhambraには1年ほど住みましたが、メキシコからの移民が増え、小学校が2部制になり、うちの子供たちも英語とスペイン語で混乱気味だったことから、やむなく近くのSan Gabriel に転居。学校も変わりました。新しい学校では日本人の友達も多く、子供達には良かったようです。

 

 

 

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東京での車なしの生活から突然車2台の生活になったのは大きな変化でした。

1台目は私が通勤と仕事に使うChevrolet Impala。大きなフルサイズカーでした。

そしてわが家の2台目はPontiac Phoenix。頑丈な車でした。主に家内が買い物などに使ったり、家族でお出かけの時に使いました。

 

 

 

 

 

噂には聞いていた高速道路網。今でこそ日本も高速道路のネットワークが整備されていますが、当時はまだまだアメリカははるかに先を行ってました。特にLAを東西に貫く片道6車線のSanta Monica Freeway は日本の狭い道を見慣れた我々にとっては感動モノでした。

 

 

Santa Monica Freeway

(画像はネットからお借りしました。)

 

 

 

週末には家族で Santa AnitaやPasadenaのショッピングセンターに出かけ、買い物をしたりレストランに入ったりしました。当時はまだ日本にはこのような郊外型の車でのアクセスを前提としたショッピングセンターはありませんでしたので、別世界に来たような気分になったものです。もっともどこのレストランもお味はイマイチだったのですが…。

 

 

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食材は近くのスーパーで済ませていましたが、足りないのはやっぱり新鮮なお魚。近くの中国人の多く住む街 Monterey Parkの食材屋さんに行ってそれらしい魚を仕入れてはいろいろトライしましたが、時には高いお値段を覚悟で日本人街のお魚屋さんに行って仕入れました。お寿司屋さんでお刺身やお寿司をいただくのは最高の贅沢でした。

 

小豆の甘みも欲しくなります。そんな時には小豆を煮込んであんこを作り、おはぎをいただきました。小豆ももち米もお砂糖も、一袋がとても大きいので、何の気なしに全部使ったら180個ものおはぎができてしまったことがありました。でも日本人のお友達に配ったらすぐに捌けました。「おはぎはどうやって作ったの!」と大変感謝されました。

 

 

 

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初めての家族旅行はArizonaへ。

車のトランクに電気釜とお米を積んで出発。宿泊は行く先々のモテル。一泊10〜20ドルで泊まれます。予約なしでOK。

 

ずいぶん遠い道のりでしたが、全てが物珍しく、楽しい旅行でした。

 

 

California とArizona の州境にあるLondon Bridgeで休憩。思いがけないところに思いがけないものがあるので驚きました。崩落したLondon Bridge をここまで運んで来て再建したそうです。

 

 

 

 

 

Tucsonの Old Townにて。

 

 

 

 

 

 

Tucsonから西へ。Ajoの街が見えてきました。

高い煙突はAjoの銅製錬所です。

 

 

 

 

 

 

ようやく街に入れそうなので、車のトランクを開けてオレンジを取り出して休憩。その時どうしたことか、車のキーをトランクの中に落としてしまい、車を動かせなくなりました!

 

通りがかりの車にヘルプを求め、街のロックスミスに連絡、来てもらいました。少し時間がかかるので一旦車を自宅まで牽引しようということになり、その後街中のロックスミスの家でコーヒーをご馳走になりました。

 

ちょうど同じ年くらいの子供達がおり、子供同士、早速仲良く遊び始めました。ロックスミスの奥さんはAjo製錬所のトラックの運転手。とても自分の仕事が自慢で、戸棚から「粗銅」の塊を持って来てこれが何かわかるか、と聞くので、「これは粗銅(Blister Copper)でしょ」というとビックリ。これがきっかけでこのロックスミス一家と親しくなりました。

 

残念なことにこのAjoの製錬所もこの4年後に閉鎖になりました。このロックスミスのご一家もおそらくはこのAjoを離れたんだろうと思います。

 

 

 

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Yosemiteから Nevadaに向かう峠にて。

 

 

 

 

 

 

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娘のお誕生パーティー。

San Gabrielのわが家の裏庭にて。

大きな3段重ねの手作りのハート形ケーキが大人気でした。

 

 

 

 

 

子供たちは遊ぶのが上手です。

 

 

 

 

 

お隣のJohn。息子の友達です。

ママはレトルトのチーズマカロニが得意なので、毎晩チーズマカロニを食べるんだ、と言ってました。わが家のお料理はどれも美味しいそうです。

 

 

 

 

 

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今回は仕事というよりはアメリカでの生活や旅行のご報告になってしまいましたが、ご容赦ください。写真もいろいろ探しましたが、何分昔のことで、ブログのアップに耐えられる写真はほとんどありませんでした。錆びついた写真ばかりですみません。あの当時一眼レフを持ってたらなあ、とよく思うことがあります。

 

最後までお付き合いいただきありがとうございます。

 

 

ご訪問ありがとうございました。

 


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