疎開って学校で習ったり親から聞いたりした言葉だけど
改めて検索してみると随分と悲惨なものだったのですね。
検索っていうのも、ピーヒャララービヨョョーンッピィーーーーーッ
という音に憶えがある世代なら
当時のインターネット上の情報量っていうのがどれほど貧弱だったか
お分かりかと思うのですが。
当初は検索結果の画面も寂しかったですね。
現在は知りたい事はたいがい検索すれば出て来てくれるので助かります。
疎開には親戚の所に疎開するのと集団疎開とがあったそうで。
どっちも悲惨な事に違いないのですが
ちょっとビックリしてしまったのが、親戚のところに疎開しても
虐められたり、家の人より食べ物が少なかったりというのが当たり前だった事。
エェェェっ噓でしょう?と目を疑ってしまいました。
これを平和ボケっていうんですかね。
だって相手は子供なんですよ?親戚の。
親戚ってことは兄弟姉妹の子だったり義理兄弟姉妹の子なんですよ。
それなのに食べ物をケチったり水をかけて虐めたりなんて…。
疎開以外にも、丁稚奉公っていうのを調べてみたら
ブラック企業どころか、奴隷制度みたいな状態だったのですね。
平和ボケできる時代に生まれて良かったです。本当に。
戦中戦後に私の父が当時どう過ごしていたのかは不明ですが
管轄役所での謄本が戦火消失になっているので、苦労はしていたと思われます。
母は親戚の家に疎開していました。
比較的恵まれていたようで、お隣のおばちゃんにも可愛がってもらえたそうですよ。
母の終戦後の暮らしも比較的恵まれていたようです。
祖父は食料を地域の人に沢山分けていたらしく
母曰く、畑でとったソラマメを指が痛くなるくらいいっぱい剥いたのに
全部余所の人にあげちゃってムカついた、とか
大量に天麩羅を作らされたのに全部職人さんにあげちゃったヽ(`Д´)ノとか。
( ´艸`)クスクス
お腹を空かせた我が子より地域の人が優先だったらしく。
私はずっと、母が言う
「婆さん(私の祖母)が死んだ時、家の前の通りに遠くまでズラリと花輪が並んだ」
という話を冗談だと思って笑い転げていました。
私には母が毒親だったという記憶しか無いですし。
そんな家系の葬式に花輪が並ぶなんてありえない、と思っていたのですが
祖父の話を聞いてなんとなく納得。
祖父については謎な部分も多いです。
食糧難の時代に母は瓶で米をついて白米を食べたという仰天発言をしていますし
航空写真に写ってしまった畑(ムニャ麻を栽培していたようです)を
警察が聴取しに来たけれども、祖父が自家製ムニャ煙をおすそ分けして免じてもらったとか
祖父は、ちょい悪親父の一面もあったようです。
家督相続の時代は老年になると戸主(世帯主)が隠居をします。
謄本にも「隠居」と記されています。
私の祖父も、祖母が他界した直後に隠居の届出をしています。
隠居をすると、長男あるいは養子として家督を相続する者が新しい戸主となり
古い時代の謄本には、戸主の他に前戸主というものも記載されていますし
嫁や孫や甥姪まで記載されています。
平成22年あたりまでは、跡継ぎが無く全員死亡して誰もいなくなった戸籍は
80年経過で謄本が廃棄されています。
最近期間が延長されたと言っても、いずれは廃棄の時期が来てしまいます。
その前に皆さんも先祖の戸籍謄本を取り寄せてみて下さい。