評価は、結果でしか、はかりようがないということはよくわかります。
学生なら点数で、営業なら取ってきた契約の数や金額なのでしょう。
努力しても、うまくいかない、成果が上がらないということが実際にあるということは評価するみなさんもご存知なのだと思いますが、その事実を知っていたとしても、評価する側としては「評価のはかりようがなければ」どうしようもないということでしょう。
入蔵は教育学の基礎がないので、ピンぼけなことを書くかも知れませんが、今入蔵が持っている考え、気持ちを学校を例にして書いておくことにしました。
学校が、厳しい現実社会に出るための準備をする場所であるなら、社会が要求する、スキルを身に着けさせて、身につけたことを「卒業証書で証明」しなければならないのですから、それを身に着けていない学生に卒業証書を授与できないのは当然のことかも知れません。
それを身に着けられないのは「本人の努力が足りない」からだと考えるのでしょう。
そうです。そう考えるほかありません。
でも、入蔵は、本人が精一杯の努力をしても、学校の要求するスキルを「学校の要求する制限内」では身につけられない事があることを知っています。
「本人の自覚が足りない」「努力が足りない」と言われるわけですが、例えば病気で、例えば経済的な理由で、成果を挙げられないということがあります。
学校にも経営的な問題がありますから、そういう学生は「困る」のかも知れません。
例えば、経済的に困っている場合は奨学金の給付を受けるという手段があるのですが、一般的にはやはり「成績が良い」という条件があります。
「成績が良いのに経済的な理由で学問が続けられない場合は助ける」ということです。
「学問を続けたいのに、経済的な理由で、良い成績を収められない」学生は助けない、あるいは「助けられない」のです。
入蔵は、教員として大学に席をおいていたとき「理由はどうあれ、入学を許可した学生が、必要なスキルを身に着けられないのは、教える方に問題がある」と思って学生に接していました。
誤解のないように、ここで書いておきますが、教員の方々や、学校(今のくだりは、学校を例にしているだけなので、職場も同じ)等を批判しているのではありません。ぜひ、お間違えのないように。
入蔵がいいたいのは、例えば、学校を例にして述べてきたように「成績があげられないのは、努力や、意欲が不足しているせいだ」とばかり考えないでほしいということです。
企業であれば、理由はどうあれ、成績が上がらなければ「泣いて馬謖を斬る」必要もあるのかも知れませんが、少なくとも教育機関であれば、成果が上がらない理由を、近視眼的な視点ではなく、多方面から考えてあげてほしいのです。
その結果として、やむなく退学というような残念な結果になったとしても、「やめる方も」「やめさせる方も」納得がいき、残念な結果を次のステップの糧にできると思うのです。
「最初から、うまくいかないのは、見込みがないから、早くやめさせたほうがいい」
確かに、それは一理あります。本当にそうかも知れません。
確かに、そうかも知れませんが、うまくいかない理由を、本人の努力、意欲の不足と短絡的に考えずに、もう少しだけ、本人に寄り添って考えてあげてほしいのです。
「だめなんだから、やめればいい」間違えないかも知れません、でも、それでやめたら、本人に深い喪失感が残るだけで、次のステップへのなんの足がかりも得られないのではないでしょうか?
もちろん「やめてみたら、本当にスッキリした」ということもあるのでしょうが。
くどくどとすみません。
このブログの数少ない読者の皆さんは、このくどくどしい入蔵の文章に慣れていますよね。
先週、急にアクセス数が多くなった日があって、こんなくどくどしいことを多くの人にお話するのは嫌だなあと思ったのですが、その後、ほとんど、「あなたと私だけ」のような状態に戻ったので、書いてみました。
もしかしたら、今「自分では意欲もあり、努力しているのに、身につかない、頭に入らない、成果が出ない」ということで悩んでいる人がこのブログを読んでいるかも知れません。
入蔵は、「あなたの塗炭の苦しみ、無念さが『わかる』などと不遜な事は言えないけれど、そして、直接的にあなたの力に離れないけれど、そういう状態になることがあることはよく分かる」ということをあなたにお伝えしたいと思います。
入蔵は、お金持ちとは言えません。でも、「差し迫って困っている」「刀折れ矢尽きる」ということもないのですが、昨日「恥だとか思わないでお金借りなさいよ」とある人から言われました。どうしてか謎です。入蔵はどこかで、なにか言われているのでしょうか。
こんなことを言われる人物の言うことですから、なんの足しにもならないでしょうが、「誰もわかってくれない」と思った時に、少しでも気持ちが休まればいいなと思って書きました。
さて、今日、入蔵は父の七回忌法要を営みました。
入蔵の父は14歳で親元を離れ、世間に揉まれ、戦争もあり、27歳で大学に入学し、並大抵でない苦労をして、33歳で歯科医師になりました。
入蔵がプロの目で見ても、技術的にも人間的にも(幼少のときから一人で生きてきたわけですから、頑固な一面もありましたが)優れた人でした。
辛い人生を送ってきたはずなのに、ユーモア精神に溢れた人でした(以前書いたかも知れませんが、入蔵はそう思わないのですが、昔からの患者さんは一様にそうおっしゃいます)。
子供がこういうことを言うのは恥ずべきことなのかも知れませんが、開業医としては、一流だったと思います。
入蔵、そして、入蔵の子ども達にとっても、「回り道をしても、どんなに辛いことがあっても『ちゃんとした人生』を歩める」と思う縁になる希望の星です。
7回忌を迎えて、改めて感謝の気持ちがわきました。
そういえば、今日は父の日ですね。
子ども達は、おじいちゃんの7回忌に心奪われ、すっかり忘れているようです。
まあ、良いです。また、クラゲの模型みたいなものをもらっても困るので(それでも、一応、応接間に飾ったりしちゃっているのですが)。
では、また(^O^)/