三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

黒田山城(仮称)

2018-03-06 15:59:49 | 古城巡り

 

城名
 黒田山城(仮称)
読み
 くろたやまじょう
住所
 多気町兄国(えくに)/荒蒔(あらまき)
築城年/者、城主 不明
形式
 丘城
遺構
 曲輪、虎口、切岸
規模
 東西80m 南北60m
標高 61m 比高 37m
環境
 櫛田川中流部右岸の平野部に北に向かって突出するように低い山が連なるその最北端に位置する。
現地
 西から東に走る伊勢本街道が黒田山を巻き込むように屈折する場所がある。まるで黒田山が外隅となって行く手をはばんでいるようである。
 相可の住宅団地や工業団地が開発されて想像が難しくなったが相可から伊勢に向かう最短のルートはこの黒田山の裾を回り込むのが最善である。
考察
 まさに伊勢本街道を掌握するにはうってつけの場所である。関所があったという記録はないのでただ、いざという時のために街道を掌握するための砦的な施設であったのかも知れない。
 兄国には古くより兄国氏という豪族が住まいしたようである。黒田山古墳群はそれら兄国氏の祖先の墳墓と考えられている。
 樋田清砂氏作成の北畠家臣団配置図にはこの兄国について大西太蔵太夫が所在しているとしているがその場所は特定されていない。あるいはこの黒田山城が関係しているのかも知れない。
感想
 城の造りから付近の神山城、矢倉山城のような戦闘的な形式ではないと考えられる。堀切や土塁の形跡は見受けられず、曲輪を最小限連結させた安易なタイプで、標高の低さをカバーするような意識は見受けられない。
 立地場所や城の造りから守りが固いとは言い難く、詰城的なものでなく、砦の詰所ないしは待避所程度の施設の様子であるとうかがえる。
 この山の東南部は黒田山古墳群として発掘調査されているが多くは開墾のために消滅している。
 この黒田山城も古墳群の一部である可能性はあるものの中世において古墳を城に改造したという可能性も捨てきれない様相である。
追記
 城の命名だが、山の名前から「黒田山城」を優先した。地元では「くろたやま」と古くから親しみ込めて呼んでいるようである。あと、地名の「兄国城」や武将の「大西城」が考えられるが櫛田川を挟んだ向かいの山頂に「矢倉山城」や「神山城」など山の名前が付いた山城があることから「黒田山城」がふさわしく思えた。

  



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