『自分を許し、受け入れ、自分を信じる』
この言葉をとある本の片隅に見つけた時、
ふと、この言葉は必要な言葉だと分かった。
自分を許すとは、どんな自分でもソレが自分なのだと認めるみたいなものだが、諦めというか仕方ないというか。
諦念ってこういうこというんだなぁと思う。
しゃあないのだ、これがありのままの自分なわけだ。
それを認めるというより諦念して許すみたいな感じだ。
認める認めないだと、壺に手を突っ込んだ猿みたいにソレを握りしめてしまって手放せなくなる。
認めたいのに自分が認める基準にみたしていない!
と、認めたくなくて、認めたいのに認るられないのだ。
条件つきというのは、自我の特性のようなものなんだなと思った。
認める認めないという二次元的だとソリャ葛藤も生まれるよね?
その考えが手放せないから。
執着もするよね。
条件はずして丸ごとザクッと諦念してしまったら、強ばっていた手がほどけて握りしめていたモノが手から離れていった。
諦めと受容は似ているようで違う。
受け入れているのが大きな違いなのだと思うんだな…
これは一変に起こる。
さて、自分を信じる…
ここはtotoも難しい。
受け入れる、とも似てるような…じつつきのような気がする。
受け入れて今の自分からのスタートになるわけだが、その先の選択での自分の中にある崇高な精神みたいなものを信じるってかんじなような…
と、今のtotoは思うわけです。
また猿みたく手に握りしめないように選択してゆく事の出来る自分を信じるっうかね…
何度でもそっちを選び直すことの出来る(やってく)自分を信じるっうかね…
自分の精神性を信じているのですな。
ここ、一応書きますが、崇高じゃないとダメだ!とかそう言うニタクではありません。
有るモンは有るんでね…
まあ、それもふくめて丸ごと自分なわけです。
あと、バッサリとこのニタクを捨てる必要があるなぁと思いました。
ニタク論を選ばないというか選択しないというか、言葉にするとニタクになるから難しいんだけど、このループから距離を置いて離れる必要がある。
このニタクな猿壺ループ、もういらねぇや…
みたいな感じなのです。
もう、今の自分に合ってないと感じるのです。
この言葉をとある本の片隅に見つけた時、
ふと、この言葉は必要な言葉だと分かった。
自分を許すとは、どんな自分でもソレが自分なのだと認めるみたいなものだが、諦めというか仕方ないというか。
諦念ってこういうこというんだなぁと思う。
しゃあないのだ、これがありのままの自分なわけだ。
それを認めるというより諦念して許すみたいな感じだ。
認める認めないだと、壺に手を突っ込んだ猿みたいにソレを握りしめてしまって手放せなくなる。
認めたいのに自分が認める基準にみたしていない!
と、認めたくなくて、認めたいのに認るられないのだ。
条件つきというのは、自我の特性のようなものなんだなと思った。
認める認めないという二次元的だとソリャ葛藤も生まれるよね?
その考えが手放せないから。
執着もするよね。
条件はずして丸ごとザクッと諦念してしまったら、強ばっていた手がほどけて握りしめていたモノが手から離れていった。
諦めと受容は似ているようで違う。
受け入れているのが大きな違いなのだと思うんだな…
これは一変に起こる。
さて、自分を信じる…
ここはtotoも難しい。
受け入れる、とも似てるような…じつつきのような気がする。
受け入れて今の自分からのスタートになるわけだが、その先の選択での自分の中にある崇高な精神みたいなものを信じるってかんじなような…
と、今のtotoは思うわけです。
また猿みたく手に握りしめないように選択してゆく事の出来る自分を信じるっうかね…
何度でもそっちを選び直すことの出来る(やってく)自分を信じるっうかね…
自分の精神性を信じているのですな。
ここ、一応書きますが、崇高じゃないとダメだ!とかそう言うニタクではありません。
有るモンは有るんでね…
まあ、それもふくめて丸ごと自分なわけです。
あと、バッサリとこのニタクを捨てる必要があるなぁと思いました。
ニタク論を選ばないというか選択しないというか、言葉にするとニタクになるから難しいんだけど、このループから距離を置いて離れる必要がある。
このニタクな猿壺ループ、もういらねぇや…
みたいな感じなのです。
もう、今の自分に合ってないと感じるのです。