古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

菜畑遺跡(北九州実地踏査ツアー No.3)

2017年12月10日 | 実地踏査・古代史旅
吉野ヶ里遺跡をあとにして次に向かったのが佐賀県唐津市の菜畑遺跡。出土物が展示されている末盧館が併設されている。

以下、唐津市のサイトをもとに遺跡の概要です。
唐津市街の西側に位置する低丘陵端にあり、東向きに開く開析谷の南側斜面を中心に立地。昭和54年(1979)、都市計画街路事業に伴う確認調査で発見され、昭和55~56年に唐津市教育委員会によって本発掘調査が実施された。調査の結果、住居跡、土壙墓、甕棺墓、水田跡、井堰、貝塚が確認され、縄文時代晩期~弥生時代前期を中心に、縄文時代前期~弥生時代中期に及ぶ遺跡であることが判明した。中でも水田跡は、畦畔や矢板列によって区画されており、縄文時代晩期から弥生時代中期にかけての、数期にわたる変遷が明らかになった。最下層の水田跡は、今から2,500~2,600年前の縄文時代晩期後半のもので、炭化した米や木製農具とともに当該期の土器が出土し、現在確認できる日本最古の水田跡として注目を集めた。

菜畑遺跡に近づいたところで気がついた。この道、このまえの車中泊で呼子に行くときに通った道だ。結局、そこから最後の交差点を曲がるまでは同じ道だった。そして曲がって数百メートルで目的地。事前の下調べで駐車場があると思っていたのだけど案内がない。末盧館の入り口を通過したのにわからない。行き過ぎて戻ってもわからない。もう一度戻ると、末盧館の入り口のところに「車は建物の中に入れてください」とある。こんな狭いところから入るの?と思いながら入ってみると駐車場があるわけではない。空いたところに停めるしかない。
こんな状態。建物の左側奥には職員の車もあったので数台も入ればいっぱい。というか数台も入れば順にバックで出るしかないだろう。


末盧館の二階、展示の様子。










出土した彩文土器の実物を展示。この実物の前にある札をよくみると「弥生時代前期」と書いてあるが、となりの土器の写真の下部の小さい文字は「縄文時代晩期」となっている。最近は弥生時代が縄文晩期まで遡ることがほぼ通説になっているので、それを反映したものと思われるが、どうせなら写真の方も修正すればいいのに。


水田跡の発掘時の写真。

この遺跡が出たために翌日に行く予定の福岡の板付遺跡が「日本最古の水田跡」の称号を譲ることになってしまった。

復元水田。ここでは実際に古代米の栽培が行われており、ちょうど収穫のあとだった。


園内では収穫した稲を干していた。


ここを見学しているときに末盧館から女性の学芸員の方が出てきて説明をしてくれた。
この遺跡は末盧館前の道路(私たちが走って来た道)の拡幅工事の際に発見された。そして貴重な遺跡であることがわかってすぐに国の史跡に指定されたので、それ以降は発掘が行われていないという。(Wikipediaによると「本遺跡は1979年(昭和54年)に発見され、1980年12月から1981年(昭和56年)8月にかけて発掘調査が実施された。1983年(昭和58年)に史跡に指定された」とある。)
国の史跡になるくらいの重要な遺跡であれば国の主導でさらに調査が行われるものだと思ったのだが、学芸員さんによると、国の史跡になると学術調査などでない限り発掘することができなくなるという。この末盧館や復元水田のあるこのあたりは発掘されていないのだとか。
以下、学芸員さんとのやりとりです。

わたし    「末盧館を建てるときには当然調査されたのでしょうね」
学芸員さん 「そのときも調査されなかったんですよ」
わたし    「ということは遺跡を破壊したかもしれないのですか」
学芸員さん 「遺跡はたいがい数メートル以上の地下にあるので破壊することはなかったようです」
わたし    「このコンクリートの建物は基礎が浅いので地震に弱いかもしれませんね」

学芸員さんも困り始めたのでこれ以上突っ込むのをやめました。
国が指定する史跡ってどういう意味があるのだろうかと調べてみると、国にとって歴史上または学術上価値の高いものを保護することが目的であり、文化財保護法に基づいて決定されるという。保護することが目的なのでそれ以上の発掘ができないという理屈だろうが、さらに詳しい調査をして遺跡の価値を高めるという考え方もあるのではないだろうか。

予定では次の目的地は桜馬場遺跡であったが、ここは事前調査で遺跡の痕跡はまったくなく、住宅地の中にあって雰囲気を感じることもできないだろうと思っていたので、あとの時間を考えてその次の目的地である宇木汲田遺跡に向かった。



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