古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

宇木汲田遺跡・柏崎遺跡(北九州実地踏査ツアー No4.)

2017年12月12日 | 実地踏査・古代史旅
菜畑遺跡を出て20分ほどで宇木汲田遺跡。田んぼの中にあることはわかっていたがカーナビを過信したがためにえらい目に合ってしまった。まもなく目的地周辺というところまで来てカーナビが示す宇木川沿いの道に入った。舗装のしていない狭い道で大丈夫だろうかと不安に思ったものの、堤防沿いで障害物もないのでゆっくり進むことにした。

少し進むとセメントで舗装中のために細い材木を横に渡して行き止まりにしていた。でも見るとセメントは乾いていたのでその材木を横にどけてさらに進んだ。舗装中のもう一方の端まで来ると今度は簡単には動かせそうにない状態で塞がれていた。これは見えなかった。すぐそこに遺跡の案内板が見えているのに、仕方なく戻ることにした。細い道を200メートルほどバックしなければならない。ハンドル操作を誤ると田んぼに脱輪するので慎重にバックした。ああ、ムダな時間を費やしてしまった、と少し後悔。

最初からこの道を走ればよかったのに。車の両側にSさんとOさん。


宇木汲田遺跡は、佐賀県唐津市の夕日山から北東に延びた二つの小丘陵の前面、宇木川の左岸平坦地域に立地する、弥生時代前期から後期の甕棺墓を中心とした遺跡である。この遺跡の特色は甕棺の副葬品にあり、これまでに細形銅剣・細形銅戈・細形銅矛・多鈕細文鏡・銅釧・管玉・勾玉などが数多く発見されていることから、ここから末廬国における王権が始まったと考えられている。



上の説明板の反対側、銅鐸の舌が出土したところ。


ここはご覧の通り、説明板のほかは見るべきものがないのだが、この立地と雰囲気からここに王権が栄えたことが何となく感じることができた。そして次は、ここから北西に数百メートルほどのところにある柏崎遺跡。

柏崎遺跡は、縄文~古墳時代の約14万平方メートルに及ぶ大遺跡。明治の終わり頃に発見された甕棺から「触角式有柄銅剣(推定全長54.9cm)」と2本の中細銅矛が見つかった。触角式有柄銅剣は世界で3例しかなく、現在は東京国立博物館の所蔵となっている。

宇木汲田遺跡と同様の説明板。


この遺跡の最盛期は弥生中期中葉から後半にかけてで、宇木汲田遺跡が衰退を始めたころから栄え始めたために、宇木汲田遺跡の一族が移り住んだか、唐津地域の首長が交代したかのどちらかだと考えられている。
しかし実際に現地に行ってみると宇木汲田遺跡と柏崎遺跡は同じ地域にあり、ひとつのクニであると思った。一族が移り住んだのでもなく、唐津地域の首長が交代したのでもなく、ひとつのクニ、すなわち同じ地域内にある別々の家に住む一族の中で何らかの形で王位が継承されただけのことだ。親から子に継いだのか、それとも本家から分家に継承されたのか。ふたつの遺跡はそれくらい近い距離である。

眼の前が柏崎遺跡でその向こう側に宇木汲田遺跡。両遺跡が一体となってこの平野部に広がっている。同じ一族が治めた地域としか考えられない。


ちなみに、桜馬場遺跡は両遺跡の少しあと、弥生後期の王墓であったとされ、末廬国の王権は宇木汲田遺跡→柏崎遺跡→桜馬場遺跡と継承されていったと考えられる。

唐津平野の遺跡分布。


末廬国とされる一帯で実地踏査ならではの感覚に浸ったあと、次の目的地は伊都国とされる福岡県糸島市である。そう、このツアーは「末廬国→伊都国→奴国→不弥国」と、魏志倭人伝に記された邪馬台国への道程をたどる旅なのだ。

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