古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

垂仁天皇(その7 天日槍の渡来)

2017年07月03日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 書紀の垂仁紀には都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)と天日槍(あめのひぼこ)という二人の渡来人が登場する。少し長くなるが、両者の渡来について確認する。まず都怒我阿羅斯等から。

 ある説によると、都怒我阿羅斯等は崇神天皇のときに日本に聖王がいると聞いて大加羅国(任那)からやってきた。途中、穴門(長門国)に着いたとき、伊都都比古(いつつひこ)なる人物が「自分がこの国の王である」と言って都怒我阿羅斯等を引き止めようとした。彼はその言葉を嘘と見破って従わずに引き返したが、道に迷って島々や浦々を巡って北の海を回って出雲国を経て越国の笥飯浦(けひのうら)に到着した。彼の額には角がはえていたのでその到着したところは「角鹿(つぬが)」と名づけられた。ようやく大和に到着したものの、崇神天皇が崩御したため、次の垂仁天皇に仕えることになり三年が経過した。
 また別の説によると、都怒我阿羅斯等が国にいたとき、黄牛(あめうし)に農具を背負わせて田舎道を進んでいたところ、黄牛がいなくなった。足跡を追いかけると、役所の中に続いていた。そこにいた老人が「お前の牛はこの役所に入った。役人たちが『この牛は農具を背負っているから殺して食べてもいいだろう。もし飼い主が返せと言ってきたら品物で弁償すればいい』と言って牛を食べてしまった。もし役人に『牛の代わりに何が欲しいか』と聞かれたら『村で祀る神が欲しい』と答えなさい」と言った。案の定、役人がきて「牛の代わりに何が欲しいか」と聞いてきたので老人に言われたとおりに答えたところ、白い石をもらうことになった。都怒我阿羅斯等はその白石を寝室に置いておいたところ、美しい童女に変身した。彼はたいへん喜んで交わろうとしたがちょっと離れたスキに童女は消えてしまった。「童女はどこへ行ったか」と妻に聞いたところ、「東のほうに行った」と答えたので、彼は追いかけた。すると海を越えて日本の国に入っていった。童女は難波で比売語曽社の神となり、また豊国でも比売語曽社の神となって二箇所で祀られるようになった。

 次に天日槍の渡来を見てみる。垂仁3年、新羅の国王の子である天日槍がやって来た。持ってきたものは、羽太玉ひとつ、足高玉ひとつ、鵜鹿鹿赤石玉(うかかのあかいしのたま)ひとつ、出石小刀ひとつ、出石鉾一枝、日鏡一面、熊神籬(くまのひもろぎ)一具、以上7種である。これらを但馬国に献上して、それ以降は神宝とした。
 一説によると、天日槍は艇(はしぶね)に乗って播磨国の宍粟邑(しさわむら)に到着した。天皇は三輪君の先祖の大友主と倭直の先祖の長尾市(ながおち)を播磨に派遣した。二人は天日槍に「お前は誰だ、どこの国の者だ」と尋ねたところ、「自分は新羅国王の子である。日本に聖王がいると聞いて、自分の国を弟の知古(ちこ)に授けてやって来た」と答え、葉細珠、足高珠、鵜鹿鹿赤石珠、出石刀子、出石槍、日鏡、熊神籬、膽狭浅太刀(いささのたち)の8種を献上した。天皇は「播磨の宍粟邑と淡路の出浅邑のいずれか好きなほうに住めばいい」と言ったところ、天日槍は「自ら諸国を歩いて回って気に入ったところに住みたい」と答え、天皇はそれを許した。それで天日槍は菟道河(うじがわ)を遡って近江国の北の吾名邑(あなむら)に着いてしばらく住んでいた。その後、近江から若狭国を通り、但馬国の西に到着して住むところを決めた。天日槍は出嶋(いずし)の人の太耳(ふとみみ)の娘の麻多烏(またお)を娶って但馬諸助(もろすけ)が生まれた。諸助から日楢杵(ひならぎ)が生まれ、日楢杵から清彦が生まれ、清彦から田道間守(たじまもり)が生まれた。

 さらに古事記を見ておきたい。古事記では垂仁天皇ではなく、応神天皇の段に天之日矛(天日槍)が登場する。
 昔、新羅の王子がいた。名前は天之日矛と言う。天之日矛が日本にやってきた経緯を記すと、新羅に阿具奴摩(あぐぬま)という沼があり、この沼のそばで身分の低い女が昼寝をしていた。そこに太陽の光が虹のように輝いて女性の陰を照らした。そばに身分の低い男がいた。男はその様子を不思議に思って見ていると、女は妊娠して赤い玉を産んだ。男はその玉を貰い受け、常に腰につけていた。この男は谷間に畑を作っていたが、その畑を耕す農夫の食料を牛に載せて谷に入ろうとすると、国王の天之日矛に出会った。天之日矛は男に「お前はなぜ食料を牛に載せて山に入るのか。お前はこの牛を殺して食べるだろう」と言って男を捕まえて牢獄に入れようとした。男は「私は牛を殺しません。ただ農夫に食料を送ろうとしているだけです」と答え、腰の玉を天之日矛に渡した。天之日矛は男を許し、その玉を持って帰ってきて床に置いた。するとその玉は美しい少女になり、天之日矛は少女を妻とした。少女はいつもいろいろなご馳走を作って夫に食べさせた。
 そうするうちに天之日矛は思い上がって妻を罵るようになったので妻は言い返した。「そもそも私はあなたの妻になるような女ではない。私の祖国に帰ります」と言ってすぐに小船に乗って逃げていき、難波にたどり着いた。この女神は難波の比売碁曽社(ひめごそのやしろ)にいる阿加流比売(あかるひめ)である。
 天之日矛は妻に逃げられたことを知ってすぐに追いかけたが、難波に到着する間際で海の神が遮って入れなかった。そこでいったん引き返して但馬国に到着した。天之日矛は但馬に留まって、多遅摩俣尾(たじままたお)の娘の前津見(まえつみ)を娶って生まれた子が多遅摩母呂須玖(もろすく)で、その子が多遅摩斐泥(ひね)、その子が多遅摩比那良岐(ひならき)、その子が多遅麻毛理(もり)、多遅摩比多訶(ひたか)、清日子(きよひこ)である。清日子が当摩之咩斐(たぎまのひめ)を娶って生まれた子が酢鹿之諸男(すがのもろお)と妹の菅竈由良美(すがくどゆどらみ)、多遅摩比多訶が姪の由良美を娶って生まれた子が葛城高額比売命(かつらぎたかぬかひめのみこと)である。高額比売は息長帯比売命(おきながたらしひめ)の母親である。
 天之日矛が持ってきたものは玉津宝と言って、玉緒がふたつ、浪を起こす比礼、浪を鎮める比礼、風を起こす比礼、風を鎮める比礼、沖津鏡、辺津鏡、合わせて8種で、これは伊豆志神社の八座の大神である。

 さて、これらの話にはよく似た内容が含まれており、また興味深い点がいくつもある。以下に整理したうえで、順に考えてみたい。



 書紀では垂仁紀に記載されているが古事記では応神天皇の段に記載される。古事記に記される息長帯比売命は神功皇后のことで応神天皇の母親である。古事記は紀伝体で書かれているため、応神天皇にまつわる話として記載する意図があったと考えられるので、神功皇后が朝鮮半島から渡来した天日槍の系譜にあることはそこそこ蓋然性がありそうだ。一方の正史である書紀は編年体であるため、天日槍が渡来したとされる垂仁天皇の時代に記載されたと考えられるが、書紀は天日槍が神功皇后につながることを記載していない。神功皇后が渡来系であることを書いてしまうと、子である応神天皇もその血を引くことになる。日本国天皇に新羅人の血が入っていることなど正史に書けるはずもないのだ。ちなみに、書紀は神功皇后が夫である仲哀天皇の没後すぐに自ら指揮をとって新羅へ出兵して勝利したことが詳しく記されている。神功皇后が新羅系であることに触れると自らの祖国を攻撃したことになるので、それも避けたかったのだろう。私はここでは古事記のほうに信憑性があると考えたい。

 都怒我阿羅斯等と天日槍の話はよく似た内容が書かれているために、この二人が同一人物であるという説がある。確かによく似ている。とくに古事記に記された天日槍の妻の状況が阿羅斯等の場合と酷似している。垂仁紀にはこの二人の他にも崇神天皇の時に任那から渡来した蘇那曷叱智(そなかしち)という人物も登場している。垂仁天皇は彼が帰国する時に任那王への贈り物として赤絹百匹を持たせたところ、途中で新羅人に奪われてしまい、これが両国の争いの始まりであるという話が記載されるが、実は都怒我阿羅斯等はこの話の別伝として登場するのだ。崇神天皇に会おうとして日本へ来たが、天皇が崩御したために会えないまま垂仁天皇に仕えた。そして帰国する時に赤絹を授けられたので国の蔵に収めておいたところ新羅人に奪われてしまい、ここから両国の争いが始まったという。これまた瓜二つの話しである。垂仁紀の構成はこうなっている。

 ①本編(蘇那曷叱智)
  ・蘇那曷叱智の帰国
  ・任那と新羅の争いの始まり
 ②ある説
  ・都怒我阿羅斯等の来日と帰国
  ・任那と新羅の争いの始まり
 ③また別の説 → 古事記の天之日矛の話に酷似
  ・都怒我阿羅斯等の牛と白石
  ・比売語曾社の神
 ④本編(天日槍)
  ・天日槍の来日
  ・神宝の献上
 ⑤別の説
  ・天日槍の来日
  ・神宝の献上
  ・天日槍の系譜

 これを見ると、①の蘇那曷叱智と②の都怒我阿羅斯等が同一人物、③の都怒我阿羅斯等と古事記の天之日矛が同一人物、古事記の天之日矛と④⑤の天日槍が同一人物、と考えることができる。つまり、蘇那曷叱智、都怒我阿羅斯等、天日槍の3人が同一人物ということになる。あるいはそれぞれの話は酷似しているが全く同一ではないため、別の人物の事績を混同しただけなのかもしれない。現時点では継続検討課題ということにしておきたい。

 ところで、3世紀後半の朝鮮半島はどのような状況だったのだろうか。天日槍は新羅から、都怒我阿羅斯等は大加羅から渡来したとなっているが、実は半島のこれらの国が国家として体をなすのは4世紀に入ってからである。朝鮮半島の正史とされる「三国史記」は自国の歴史を長く続く由緒ある国に見せるために建国の時期を紀元前後にまで遡らせているが、朝鮮半島で高句麗、百済、新羅の三国が繁栄した実質的な三国時代は4世紀から7世紀と考えるのが妥当とされる。とすると3世紀後半の垂仁紀に記された都怒我阿羅斯等、天日槍、蘇那曷叱智の祖国がそれぞれ大加羅、新羅、任那となっているのは、3人の事績が4世紀以降のことであったが何らかの理由で垂仁天皇の時代にもってきたという可能性がある。これも継続検討課題にしておく。ちなみに、大加羅というのは統一国家ではなく小国群の総称であり、任那もその地域に含まれていた。
 
 
 余談めいた話になるが、都怒我阿羅斯等の話に登場する伊都都比古なる人物の名は魏志倭人伝の伊都国を連想させる。垂仁天皇は3世紀後半の天皇であるから、ぎりぎり魏志倭人伝の時代と重なっている。北九州にあった伊都国の勢力が穴門(長門国)まで及んでいたのであろうか。書紀はその伊都国の王を伊都都比古と記したと考えることはできないだろうか。伊都国の王が倭の女王を名乗って魏に朝貢していたという説がある(私はその考えに立たないが)。崇神天皇を慕って渡来した都怒我阿羅斯等に対して伊都都比古は「自分がこの国の王である」と騙そうとした。よく似た話だ。
 
 
アメノヒボコ―古代但馬の交流人
 
神戸新聞総合出版センター



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