古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

吉野ヶ里遺跡(北九州実地踏査ツアー No.2)

2017年12月08日 | 実地踏査・古代史旅
福岡空港を出て徒歩で事前に調べておいた空港近くのレンタカー屋さんに向かう。看板が出ているものの明らかに営業している様子ではない。少し焦ったものの、入り口に近づくと「移転しました」の貼り紙。書いてあった連絡先に電話すると、迎えに行くのでお待ちくださいとのこと。ほどなくマイクロバスがやってきて、無事に新店舗で手続き完了。前回の丹後・出雲ツアーでは私が免許証を忘れたために3日間ともOさんに運転をおまかせしたので心苦しかったが、今回は出発前に免許証とメガネを何度も確認しておいたので問題なし。

まずは最初の目的である吉野ヶ里遺跡へ。
13年前に奥さんとの旅行で来たときは国営公園として整備中であったものの、遺跡という雰囲気を十分に感じることができたが、今回の訪問では遺跡と言うよりもむしろ公園という感じだったのが少し残念でした。

公園への入り口。


資料展示室を見た後、南内郭へ向う。


物見櫓から南内郭を眺める。

<吉野ヶ里遺跡歴史公園のサイトから>
吉野ヶ里が最盛期を迎えた頃、吉野ヶ里の集落をはじめ、周りのムラを治めていた王やリーダー層の人々が住んでいた場所と考えられています。周囲を環壕と城柵で囲まれ、敵を見張ると同時に吉野ヶ里集落の権威を示すシンボル的役割を持っていた物見櫓と考えられる建物跡が見つかっていること、人々が住む竪穴住居が中心であること、当時としては極めて貴重な一部の有力者しか持つことができなかったと言われている鉄製品が数多く見つかっていることなどから、このように考えられます。

修学旅行の高校生が大勢いたけど、遺跡のことを勉強してから見学しているのだろうか。観光するならもっといいところがあるのに。この広い公園に閉じ込めておけば問題を起こすこともないし、どこかへ行ってしまうこともないから、先生も旅行会社も楽なんだ、とSさん。なるほど。

同じく南内郭の物見櫓から「倉と市」というエリアを望む。

<吉野ヶ里遺跡歴史公園のサイトから>
海外との交易品や日本各地のクニグニの特産品などが集まり、盛大な市が開かれたり、市で取引される品々が保管されていたと考えられる倉庫群などが集まった、吉野ヶ里を支える重要な場所であると考えられています。レンガなどに描かれた古代中国の市の様子とよく似た構造をしており、また当時の交易の重要な交通手段と考えられている「舟」が利用できる大きな川がすぐ近くを流れていたこと、さらにはこの地域全体が大きな壕で厳重に囲まれていることなどが、こうした考え方の基になっています。

北内郭入り口と主祭殿。


<吉野ヶ里遺跡歴史公園のサイトから>
吉野ヶ里集落だけでなく、吉野ヶ里を中心とするクニ全体にとって最も重要な場所であったと考えられています。田植えや稲刈りの日取りを決めたり、季節ごとのお祭りの日を決めたり、また大きな「市」を開く日取りを決めるなど、吉野ヶ里を中心とするクニ全体の重要な物事についての儀礼的な話し合いと祖先への祀りが行われていた場所と考えられています。また当時は、重要な物事が話し合いでは決まらない時には最高司祭者(祖先・神の声を聞くことができる特殊な能力を持った人)に祖先の声を聞いてもらい、その声に従って決定していったと考えられています。

北内郭の周囲は南内郭よりもきれいな板塀で隙間なくびっしりと囲まれていました。復元に現実感がないだけでなく、吉野ヶ里の風景を台無しにしている、とはSさんの弁。同感だ。

主祭殿三階の展示。

神託の場面を再現している。琴を弾く人と審神者(さにわ)が両側に控えている。神功皇后による神託もこんな感じだったのだろうか。審神者とは神の言葉を解釈して伝える人のことです。

北墳丘墓へ向かう途中の甕棺墓列。

このツアーではこのあと、飽きるほどに甕棺を見ることになるのです。

北墳丘墓。

<吉野ヶ里遺跡歴史公園のサイトから>
吉野ヶ里集落の歴代の王が埋葬されている特別なお墓と考えられています。このお墓は人工的に造られた丘で、違う種類の土を何層にも積み重ね、しっかりと突き固められて造られており、とても丈夫な構造になっています。中からは14基の甕棺が見つかり、ガラス製の管玉や有柄把頭飾銅剣が一緒に収められているものもありました。このお墓は弥生時代の中頃、紀元前1世紀のものですが、その後はお墓としては使われなくなり、その代わり祖先の霊が眠る場所として人々から大切にされていたようです。

2003年に来たときはこんなに高い盛り土だったろうか。
この墳丘墓を手前から眺めるだけにして戻ろう、というSさんに抵抗したOさんと私。ここまできて近くで見ないわけにはいかないと。墳丘墓への道が裏側に通じているので行ってみると、なんとそこはこんなことになっていました。

2003年に来たときにはこんなのなかった。盛り土が高くなっている理由がわかった。吉野ヶ里遺跡歴史公園のサイトによると、北墳丘墓の遺構の保存のため埋め戻されたが、平成20年に北墳丘墓の内部を展示施設として発掘当時の状況が公開されたという。Sさんの言うことを聞かなくてよかったあ。

吉野ヶ里遺跡歴史公園はまだまだ広大なのだけど、全部回っているとそれで一日が終わってしまう。2時間ほどかけてメインどころは見たので、これで次の目的地「菜畑遺跡」に向かうことにした。

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