古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

景行天皇(その7 九州平定④)

2017年09月06日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 八代県豊村(現在の熊本県宇城市)のあとは有明海を越えて高来県(島原半島一帯)へ、そこから再び有明海を戻って玉杵名邑(熊本県玉名郡および玉名市)に至り、土蜘蛛の津頬を殺害した。その後、内陸部へ移動して阿蘇国に到着した。当ブログの第一部の「倭国vs狗奴国 戦闘の様子」で詳しく見たように、玉杵名邑から阿蘇国にかけての一帯には狩尾遺跡群、池田古園遺跡、池田遺跡、下山西遺跡、西弥護免遺跡など、大量の鉄器や鍛冶遺構が検出された弥生時代の遺跡が密集している。奥野正男氏はその著書の中で、弥生時代後期後半から終末期にかけてこれらの遺跡から鉄族を中心とする大量の鉄器が出土する事実から、三世紀頃のこの地域において軍事的緊張が続いていたことが想定される旨のことを書かれている。ここは狗奴国と倭国の戦闘における狗奴国側、すなわち熊襲・隼人勢力の前線基地のあったところだ。景行天皇は的確に敵勢力の拠点を攻めていると言える。
 阿蘇国に阿蘇津彦と阿蘇津姫の二柱の神がいた。阿蘇津彦は肥後国一之宮の阿蘇神社の祭神である健磐龍命(たけいわたつのみこと)と同一神とされる。その阿蘇神社には阿蘇津姫も祀られている。阿蘇神社では健磐龍命は神武天皇の子である神八井耳命の子、すなわち神武の孫と伝えられているという。やはりこの地は神武勢力の領域なのである。景行天皇からみると敵側である神武の系譜にある阿蘇津彦、阿蘇津姫を土蜘蛛や賊として扱わずに神として敵でも味方でもないように書いている。これもまた万世一系を演出した書紀の矛盾の表れである。
 阿蘇津彦、阿蘇津姫が祀られる阿蘇神社は先の熊本地震で社殿が倒壊するなど甚大な被害を被り、現在は復旧の真っ最中である。

 阿蘇から再び有明海方面に向かった天皇は筑紫後国御木(大牟田市三池町)に到着し、仮の宮を設けた。大牟田市歴木(くぬぎ)町 の高田公園内に高田行宮跡の記念碑が建っている。書紀に長さが970丈もある長大な倒木の話が記載されている。天皇が「何の木だ」と尋ねたところ、老人が「歴木である」と答えた。天皇は「珍しい木で神の木だ」と言った後に「この国を御木(みけ)と名づけよ」と言ったことから当地の地名は御木となり、それが三毛→三池と変化した。三池町の隣の歴木町の名もこの書紀の逸話によるものだろう。高田行宮跡地の決定においては、この付近で地中に埋まった古代のクヌギが時々産出されることが大きな要因になったという。

 次に八女県(現在の福岡県八女郡あるいは八女市)に着いた。八女市矢部村には八女津媛神社がある。峯が重なる美しい山々を見た景行天皇が「あそこに神がいるのか」と聞いたところ、水沼県主である猿大海が「八女津媛という女神がいる」と答えた。この媛はおそらく神夏磯媛と同様、この地を牛耳る女首領であろう。とはいえ、土蜘蛛や賊ではなく神とされていることから、阿蘇津彦・阿蘇津姫と同じく神武勢力側の人物ではないだろうか。
 そしていよいよ九州平定の最終目的地である的邑(現在の福岡県うきは市)に到着して食事をとった。そして翌年、天皇はようやく大和へ戻った。景行12年に開始した西征は足掛け7年を要した。

 さて、あらためて九州平定の行程地図を見てみよう。南九州に足を踏み入れていないことは前回書いたとおりだが実はもう1ヶ所、踏破していないところがある。それは北九州の玄界灘沿岸各地である。ここは魏志倭人伝にある末廬国、伊都国、奴国、不弥国が並ぶ地域で、私が北九州倭国とよぶ地域である。これらの国々は邪馬台国、すなわち崇神王朝を盟主とした連合国家を形成していた。つまり邪馬台国の王は連合国の王でもあり、それが景行天皇であった。したがって、これらの国々が平定の対象となるはずがなく、当然のごとく西征の空白地帯となっているのだ。


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