貨幣経済が浸透していない社会では、困ったときの貸し借りは、「あの人に負い目がある」という感覚でやっています。つまり取り立てなしの信用貸しシステムです。ところが、貨幣ができると、利子と「取り立て」が生じます。そうすると、とことん没落する人たちが現れてきます。(デヴィッド・グレーバー『負債論』)

 

 貨幣経済ができてからというもの、お金を争奪するゲームは、負けた者にきついものになりました。勝者が、敗者から身ぐるみはがしたがるのです。

 お金争奪ゲームがあれば、かならず勝者と敗者ができます。

 かならず、金持ちは少数であり、貧困者が多数です。少数の勝者が、多数のプロレタリアートと、自分の財産を守るために戦い続けるようになります。そうなると、その社会はだいたいもうだめ。創造性を失ってしまい、形を守るだけになっていきます。

 

 紀元前2400年のメソポタミアですでに、財政難になった農民に対して金持ちが担保を取って貸付を行い、返済できないと財産を取り上げていました。家具、家、畑にはじまり、召使いがいればとれら、その後子どもや妻が続き、最後は債務者自身が「負債懲役人」にまでおとしめられます。

 世界の各地で、大土地所有者と多数の小作人が生まれました。そうすると、けっきょくは、戦争、内乱ですべてがご破算になります。戦乱で金持ちたちが没落すると、また新規の争奪ゲームがはじまり、独占的な勝者が現れるまで続きます。農業時代が終わると、貧困プロレタリアートが登場します。

 

 近・現代ですと、経済恐慌やハイパーインフレーションによる、「ご破算」も加わります。

 

 なぜ、このような愚行を重ねるのでしょうか。

 お金にすごい価値があるからです。

 すべてのものは、穀物でも、衣服でも、住居でも、時とともに損耗します。しかし、お金だけは損耗しません。損耗しないどころが、利子が利子を生みます。おまけに、お金は何とでも交換可能です。だから、すべてのものの中で、お金は飛び抜けて高い価値を持っています。誰もが、お金を集めようとします。不必要でも、持っていようとします。

 

 それでお金は、不必要なところにたくさん貯まり、必要なところに不足します。

 

 だったら、お金なんかない社会を作ったら、という発想もあります。でも、これは実現が難しい。お互いにほしいものを的確に作って渡す、なんて、超善人たちがテレパシーを使って運営している社会ででもないと、難しい。

 ところが、うまい発想をした人がいました。シルビオ・ゲゼルという経済思想家です。

 お金も少しずつ損耗(減価)するようして、建物と同じとか、自動車と同じくらいとかの価値にしよう。そうすれば、お金の形で貯め込むと損をする。お金を集めることが自己目的にはならなくなるだろう。

 これは、天才的直感だったと思います。

 

 シルビオ・ゲゼルは、毎月スタンプを貼らないと有効にならないお札を提唱しました。そのスタンプ料金が、お札の減価に相当します。これは、歴史的に実例があります。

 しかし、お札にスタンプを貼るのはいささか面倒くさい。お金が少しずつ減価するようにするのは、現代のテクノロジーを使えば、簡単にできます。

 

 貯めることを自己目的にしてもしょうがないお金! 減価マネーは、果てしなく続く、マネー獲得とご破算のゲームに終止符を打つことができるでしょう。

 

 でも、ちょっと問題があります。減価マネーは、貯めることが難しいということです。それが減価マネーの欠点でもあります。そこで減価マネーをベーシック・インカムと組み合わせることができます。ベーシック・インカムがあれば、少なくとも路頭に迷う心配はなくなります。こうすれば、金銭崇拝も終わりますし、生活費がなくなる心配もなくなります。

 


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