実は最近、違うところで違う書き物をしている時に、その内容的フレーズからこぼれ落ちるように出て来たのが”智恵子抄“でした。
レモン哀歌。そう、単純に有名ですよね。

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“そんなにもあなたはレモンを待つてゐた

かなしく白くあかるい死の床で

私の手からとつた一つのレモンを

あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ

トパアズいろの香気が立つ

その数滴の天のものなるレモンの汁は

ぱつとあなたの意識を正常にした

あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ

わたしの手を握るあなたの力の健康さよ

あなたの咽喉に嵐はあるが

かういふ命の瀬戸ぎはに

智恵子はもとの智恵子となり

生涯の愛を一瞬にかたむけた

それからひと時

昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして

あなたの機関ははそれなり止まつた

写真の前に挿した桜の花かげに

すずしく光るレモンを今日も置かう”


これです。

いやぁ、中学生以来でしょうか。確か現代国語で習った気がします。

皆さんも共感はおんなじでしょうけれど、当時の私は13歳ぐらいですし、ちっとも意味がわからず。そして世間一般からしても純愛詩として誉れ高い作品だと認識した覚えがあります。


しかし、あの頃…、忘れもしない智恵子抄なるものを買って読み漁った記憶もある。

それは小説だったか(小説なら佐藤春夫氏であったと思われます。今回図書館で借りた際、ペラペラとめくって見たら、読んだ覚えが……。)

詩集だったか、かなり曖昧です。


借りて来た本の表紙を開くと千恵子と光太郎の寄り添う写真と、千恵子が残した作品の一部、切絵の数々が飛び込んできました。

そしてこのおまけの写真が。鮮やかに、ぱーーーっとあの頃に呼び戻された感覚に陥りましたとさ。

『夏だったな、確か。読んだのは……、』

こんなことまで思い出してしまうから人の脳味噌とは奇想天外です。

それはそれは昔、ガラステーブルに本を置き、暑い夏のことだから、肘をついて読書するとレースの飾り(テーブルにかけてあるクロス)の跡が肌につくから嫌なんだなぁ、こんなことまで思い出してしまう。

光太郎と千恵子の写真を見て、子供の私がなんとなくざわついたのは、既に内容をじっくり読んだ後だったからだと思います。発狂した妻と寄り添うように写る光太郎。

私がふと抱いた疑問の発端とは、光太郎の慈愛に満ちた眼差しでしょうか。

この当時、我が家にも困ったちゃんが一人いて、父は彼女の世話に孤高奮闘、苦労しておりました。

そんな父の顔と比較してしまったからだろうか…、子供の私には到底信じられぬ光太郎の表情だった、こう考えられる。

異常をきたした人との生活は、常にワンセットで生きて行く覚悟に喘ぐ…、と、私は理解しております。そして精神が侵されてしまう過程としては、案外、原因が掴みにくいとも言われている。

遺伝的、生活の激変などを指摘する先生方もいらっしゃるでしょうが…、さてどうなんでしょうか。

今、写真を見る限りでは、二人が手を繋いでいるように見えません。しかし、少女だった私はうっかり、手を握り合っていると勘違いしたのでしょう。世でいう"夫婦愛"という理想を信じたからでしょうか…、

今から20数年前の記憶です。子供の実感とやらは案外真摯で身勝手なものです。そこに案外、鋭い視点があったかどうか…、加齢とともに薄らぐ今日この頃でございます。どうぞお許しください。



さて。

話が逸れましたが、いったい何故にこの”レモン哀歌“に惹かれたのか。それもふたたび…、ということになりますが、この歌の持つ両極端な左右の側面というものに大人(妙齢に達した)自分がいるからだろうか。よもや漸く"そこに"気づいたからでしょう。


そうした気づきとは、ある日突然に起こるものなんです。

だからこそ、生きるとは素晴らしい。よかった……、そういった意味でも拙い人生に乾杯。


光太郎と妻千恵子とは芸術家同士のカップルです。彫刻家の光太郎、画家の千恵子。

同志である二人が営む生活にいつしか亀裂が走るのも無理ないこと。しかしこうした破綻に注目しながら、もう一方にも注視して見てみよう。

千恵子が異常をきたし、紆余曲折、当然あったろうと思いますが、千恵子は発狂しながらも精神はまるで神がかってしまったようだ。

夫婦のやり取りの中で何があったか。

詳しくは光太郎しか知らぬことがたくさんあると思われますが、千恵子は童女となり天女のように…、いわゆる天衣無縫の美神となった。

それも光太郎のみの、絶対なる現人神に。

智恵子との対峙に肝を据えてからの光太郎は彫刻にも艶を増したように思う。智恵子の死後、発行された詩集には煌めきと純粋さと、異様なまでの赤裸々さとが散りばめられている。

となると、千恵子は光太郎の女神(ミューズ)……、理想の女となったわけです。




智恵子の裸形をわたくしは恋ふ。
つつましくて満ちてゐて
星宿のやうに森厳で
山脈のやうに波うつて
いつでもうすいミストがかかり、
その造型の瑪瑙めのう質に
奥の知れないつやがあつた。
智恵子の裸形の背中の小さな黒子ほくろまで
わたくしは意味ふかくおぼえてゐて、
今も記憶の歳月にみがかれた
その全存在が明滅する。
わたくしの手でもう一度、
あの造型を生むことは
自然の定めた約束であり、
そのためにわたくしに肉類が与へられ、
そのためにわたくしに畑の野菜が与へられ、
米と小麦と牛酪バターとがゆるされる。
智恵子の裸形をこの世にのこして
わたくしはやがて天然の素中そちゆうに帰らう


千恵子が発狂してからというもの、光太郎が愛情細やかだったのはいうまでもありません。

愛でかたが今までとは違う。

実際、我が家でもそうでした。至純なる存在の人と始終一緒に笑って泣いて…、こういった人に寄り添う人、男性においては女性崇拝の強いタイプが多いと思われます。

信仰イメージでいえば”母神信仰“ではないかしら。

愛の絶唱”智恵子抄“は、光太郎の妻、千恵子に対する”殉教“イメージが濃いという。

確かにちょっと歪んではいるけれど、(大人の私が読むと、ちょい倒錯ムードが色濃い)

しかし、こうした倒錯観念は芸術家にはありがちで、痛罵されるには値しない。自分たちも必ず持っている本能的なものが異様に目立ってしまうのは、光太郎が奇才であるからでしょう。作品(本物)も残しますしね。


智恵子抄に隠された夫婦の秘密が知りたいだとか、そういったものではなく、光太郎の心の中に秘めたる二面性があったと知り、ただ私は嬉しかっただけ。ただの純愛詩だと思っていたのに、やはり光太郎も泥々とした淵を彷徨ったとわかっただけで嬉しかった。

13歳の私に罪はなかった。幼すぎてそこまで読み取れなかっただけだったのです。


”をんなが附属品をだんだん棄てると
どうしてこんなにきれいになるのか。
年で洗はれたあなたのからだは
無辺際を飛ぶ天の金属。
をんなが附属品をだんだん棄てると
どうしてこんなにきれいになるのか。
年で洗はれたあなたのからだは
無辺際を飛ぶ天の金属。“


棄てるのではなく、棄てさせてしまうということがある。

奪うことも奪われることもあるのが男女なのだ。

そして剥き身になった貴女はこんなにも美しい……、こんな詩は、あなたにとって美しいですか?怖いですか?


"削ぐ"という行為をこうして表現するとは。

詩とは素晴らしい。


"智恵子抄"は光太郎の予想を反して、大ベストセラーとなり増刷を余儀無くする。


『あなたはだんだん綺麗になる…、』


光太郎の唇にこの詩が乗った時、智恵子は無心に微笑したに違いない。

発狂した智恵子の寄る辺は光太郎しか居なく、また光太郎が守らねば(囲い込まねば)散る命に等しいといった瀬戸際の愛であった。

そんな時の彼の魂は、ことごとく洗浄され、砕かれるように慄いてしまう。

常人の知りえぬ"禁じられた領域“というものに足を踏み込んだものにしかわからない興奮が…、なかば恍惚でしょう。そして千恵子は、光太郎をどう受けとめたんだろう。

謎めいた夫婦物語、またしても不可解を極める男と女の物語。

しかしそれでいいのかもしれない…、奇々怪界これに在り。この世とはしょせん、空漠なのだから。


2017.10.11