古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

漢委奴国王の時代からヤマト朝廷に至るまでの国々

2017-01-22 13:14:00 | 歴史
なんとも、良いタイトルが思いつかない。
とにかく、漢委奴国王 の時代からヤマト朝廷に至るまでの国々について
以下勝手に、邪馬台国連合、出雲朝廷、筑紫朝廷、ヤマト朝廷と云う言葉を使わせていただきます。
紀元前57年に「漢委奴国王」の金印が奴国王贈られていて、100国があったとされています。
国と呼んでも、小さな村々で、倭国は九州北部の地域の事です。
3世紀になり、「親魏倭王」の金印が卑弥呼に贈られます。
魏志倭人伝を参考にすると
九州北部が30国まとまり、邪馬台国連合という事でしょう。
南に狗奴国(くなこく)がある。男子を王としている。 女王に属していない。
九州南部は狗奴国である。
・女王国の東(方)に、千余里を渡海すると、また国がある。みな倭 種である。
日本海を東へ進んだのであれば、出雲国で
瀬戸内海を東へ進んだのであれば、ヤマト朝廷です。
・侏儒(こびと)の国が、その南に(存)在する。・・・女王(国)を去ること四千余里である。
出雲、或いは近畿までの距離の4倍ほど南に小柄な民族が住む国、倭種ではない。
?裸国・黒歯国があり、 またその東南に在る。船行一年でいたることが可(能)であろう。
行けるかどうかもわからないほど遠く(南東方向)に国がある。
この辺りは倭国からの情報ではなく、魏の敵国 呉が交易していた国々事で
沖縄からフィリピン辺りの事でしょう。

ここから古事記・日本書紀の神話の部分です。
国産みで、九州は筑紫島で四つ顔(国)があります。
筑紫国、豊国、日向国、熊曽国です。
卑弥呼の死後、九州北部は筑紫朝廷になり、天孫降臨でニニギが日向国に移り住みます。
九州北部がひとつにまとまり、九州全体で四つの国になっています。
四国も四つの国がありますが、本州では、まだ国の名前は出ていません。

アマテラスの弟スサノオが隠岐の島に降りて、その子孫、大国主神が出雲の国を作りません。
アマテラスは、自分の子供に出雲国を譲る様に迫り、無血開城で出雲国がアマテラスの子孫の支配下になります。
筑紫朝廷と出雲朝廷の2大朝廷の連合国が出来ます。

ニニギの子孫である初代天皇神武天皇が日向の国を離れて、近畿(奈良)に住み着き国造りが始まります(神武東征)。
ここで出来たのがヤマト朝廷(なぜか邪馬台と呼び名が似ています)
ここで神話が終わり、後は歴代天皇の話に変わります。近畿を中心に権力の奪い合いの歴史です。
神武天皇には、日向にアヒラ姫がいましたが、新たに、スサノオの血統である大物主神の子、イスケヨリ姫と
結婚します
。今で言えば戦略結婚ですが、出雲朝廷とヤマト朝廷の連合体制が出来ます。
筑紫朝廷から見ると出雲朝廷の裏切りに見えたでしょう。

後に出てくるのが
倭タケル九州征伐、関東征伐と神功皇后の三韓征伐が神話同様にとてつもなく大掛かりに登場します。
筑紫碧の乱でも、ヤマト朝廷と敵対する筑紫一族が登場します。

卑弥呼の死後、古墳時代の出来事です。ざ~とまとめると
・卑弥呼死後、九州北部は筑紫一族の国となる。
・邪馬台国一族は、日向国(宮崎)移住、新女王台与は、豊国(大分)に住み着く
・狗奴国は、熊曽国 となり九州が4つ国に分かれる。
・邪馬台国(後の日向国)は、出雲国の和睦同盟に成功する。
・日向国が近畿へ移住、ヤマト朝廷造りが始まる。
・出雲朝廷とヤマト朝廷で戦略結婚が成立、近畿から中国を統治する連合国が出来る。
・ヤマト朝廷連合国が筑紫碧を討伐、近畿から九州に至る西日本を統治する。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿