Zen禅

心理学に基づく坐禅の研究-心の風景を眺め、流れていく気持ちの音を静かに聴く(英訳)

相互法則-Mutual Law

2017-02-03 | 坐禅

与えたければ与えられるのか

Can be given if want to give?

人にあげたいものをあげられるか

Can give which want to give to people?


目に見えない心をあげることは可能だろうか

Is it possible to give a mind that invisible?

目に見えない気持ちをあげることは可能か

Is it possible to give a feeling that invisible?

それらが可能ならば

If they are possible,

与えたものに対する受け取りが成立する

Can establish a receiving completed by a given

与えたから受け取った式もありえる

It can be an equation which has taken because has given


あげた+もらった=相互関係の均衡

Gave + Took = Equilibrium of mutual rapport

果たしてそんなに簡単に成り立つものか

Will it become such simplify as it is?


私は長年このもらいあげの関係について考えてきた

I have been thinking about this Give and Take rapport for many years

何故なら、そのもらいあげの過程で

The reason why is, in the process of Giving and Taking

ストレスや苦悩、喜びや絆のような

Such as stress or suffering, joy or bonds with people

相反する気持ちが交差するからだ

The conflicted feelings are come across


生徒を指導して頃

When I was teaching students

分かることの楽しみを与えたかったが

I wanted to give the enjoyment of knowing to them

大体の生徒は分からなければならない作業として受け取られた

Most of students took it as a work that must know

私が学生だった時

When I was a student

先生方が私に教えたかった追及の意味を

The meaning of pursuing that teachers wanted to teach for me

私が成績の一環として受け取ったのと同じだろう

It might be the same as I took it for the part of my scores


私が仕事に追われていた時

When I was chased by works

仕事から受ける恩恵より

Other than the blessing which work gave to me

仕事から受けるストレスに不満を覚えていた

I had felt frustration that caused by stressful work

考えてみれば

To think back

親から受けた命の尊厳性よりも

Other than the dignity of my life that my parents gave to me

親から受けていない絶対的な愛情を理由に親を軽視した

I neglected my parents for the reason, they didn’t give me absolute affection

姉から受けた無条件的な信頼よりも

More than the unconditional trust that my sister gave to me

私が返した金銭的な援助の方が、価値があると思った

I thought that my financial paid back was worthier

….

….


人はもらいたいものをもらったら喜ぶ

People are pleased when they get what they want

人はもらいたいものを期待する

People expect what they want

だが、あげる人に取ってはそれらが分からない

But the givers don’t know what they want

人はもらいたくないものを与えられたら怒る

People get angry when they take what they don’t want to take

人はその与えに対し心を閉ざす

People shut their minds against unwilling giving


これらの相互関係には

For this relation with each other

与えAに対するもらうBが同じ値でない時

Giving A for Taking B, when it is not an equal value

A≠B が成立する

Can be established  A≠B

A=B の時はお互い満足し絆が固くなる

When A=B, be satisfied each other and the bonds becomes tighten


これらから考えられることとして

As a thinkable fact from above

心や気持ちといった目に見えないことの扱いには

To deal with such invisible matters minds and feelings

取り扱い説明書を注意深く読む必要があることが言える

Can say that the necessary of read carefully the instruction manual

その説明書を読むには

To read the manual

まずその説明書で書かれている言語を

For the first, the language written on the manual

判読することから始めなければならない

-should be interpreted to begin

Aが発する言語が解読できたら

If decoded the language which originated from A

Bはその言語やサインに因んで

Depending on the A’s language or sign

類似したサインを送る

Send a similar signs

因果関係が明確になり確かなものになっていく

With it, the rapport becomes clearer and get firm


けれど、私には上記の相互作用から

However, as for me the functional interaction above

発生される苦悩や誤解を未だに解決できない

I can’t solve out yet those have suffered and have misunderstood

其の度, 私は坐禅をする

When it accrues, I do zazen


坐禅をする時間には

At the time doing zazen

あげることももらうことも無いゼロ時点が存在する

There is a zero point a place where there is no giving and taking

@プラス+@マイナス=@0になる

It is, @ Plus + @ Minus = @0


自分に何かをあげていなく

Nothing to give something to myself

自分がそれを受け取っていない、そのゼロ時点は

I myself does not taking it, the point of zero

私の心の均衡を保たせてくれる

It keeps my mind balanced

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19 Comments

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Unknown (T)
2017-02-05 01:36:37
今朝の目覚めのご宣託!!

今回のテーマは難しかった。昨夜5~6回以上読んで寝た。ケイレンさんの真意をつかもうと・・・。

睡眠後、今朝目覚め時、浮かんで来た事は、「A=Bとは何か」についての解釈だ(…間違っているかも知れないが・・・)。

日本人や西洋人にはA=Bは起き無いだろうと気が付いた(多分だが?)。
A=Bは儒教に関係しているのだろうか??
「A=B」是即「B=A」・・・逆も真ナリ!!

オ・ソンファ(呉善花)さんの講演(@ユーチューブ)を思い出した(点の記憶への海馬による検索)。

彼女によれば・・・、
韓国では二人が友達に成れば自他の区別が無くなる。だからお互いの持ち物を自分の物の様に使う・・・当然の事として・・・無言で、相手に断る事も無しに・・・懇願の情・謝意の気持ちを表す事も無く・・・。
それが相互の親しさの証拠であると見做す(=相互作用として自分と他者を区別する事がない、即ちA=B)。

で、彼女は(日本での)留学生当時、教室で、親友となった友達(日本人)の消しゴムを無言で勝手に使っていたそうだ。

三四回は良かった・・・【仏の顔も三度まで】だからだ。
でも最後にその友達がムッとして我慢し切れなくなって言った。
「呉さん、それはちょっとおかしいんじゃない?、
なぜ、借りる時に貸してねと断らず、ありがとうと言って返さないの??」・・・と。

これが日本での形だ。「親しき内にも礼儀在り」を実行する。だから日本ではA=Bは起こらない。「自分の壁」という左脳の範囲内で行動するからだ。自分の壁を越えて「自他が融合した右脳の世界」では生きられないからだ。

坐禅して無我となれば、そのゼロ時点で、心の均衡を保てるのであろう。 ゼロ地点=無我と言う境地では自他の区別が無くなるのだから・・・。 自利行=利他行そのものなのだから・・・・(注:まさにキリストのいうアガぺーの愛の境地だ)。

しかし現実では、日本人の場合、西洋人も含めて、日常生活では自他の区別の中での礼節を重んじる。
無言の「要求」、無言の「感謝」も在り得ない。
サイン・ランゲッジは不遜のサインとさえ見做される。
よって、A=Bは起こらない。
唯一の例外は(多分?)僧侶の托鉢の時か?、托鉢受けてもお辞儀を返すな!!

・・・と考えるとインド人(少なくとも釈迦時代)僧侶は、托鉢での他者からの施しを「施しと思うな」という教えと実践は、自他を区別しない無我に於いての相互作用だったと再認識をする事となった。

今でもインド文化は、「日本人の常識はインド人の非常識」という原理から成り立っている。
・・・・とすれば、日本の【ありがとう文化】は西洋思想から来た、近代舶来モノだったのか?・・・と新たな興味が沸いてくる(水平飛行)。

P.S それはそうと、今回記事の添付図形が素晴らしい。・・・素晴らしく暗示的であり象徴的だ!!
ありがとうと言うべきか、無言でも通じるか??

共有フォルダ (A≠B)
2017-02-05 02:14:32
正に、そのオさんの例は韓国人の付き合い模様を断片的に表したものですね。
そうだ、そうだと頷けます。

他の例をあげると、バスや電車に乗ったら椅子に座っている人は立っている人のがばんを何の社交辞令を言わず、ただ持っててくれたりします。
目や手で合図は送りますので、持ってもらう人もその合図に従って目礼だけする場合もあります。

また、共同のお風呂や銭湯でも、全く知らない他人同士が背中を流し合うのも刻普通でした。

年寄りが若者に説教するのは当たり前で、人が道理に適わないことをするとみんなでその人を非難したりします。

学校で消しゴムみたいなものは当然のように使って(私のも使っていいよの意味)または使われて(使うのは友達である意味もある)暗黙の会話をしている訳です。
それらを探ると、GIVE AND TAKE が友達に成り得るための一つの手段であって、そこには利得とか他得とかを決める境界線がはっきりとないのです。

A≠Bは指摘なさったとおり、成立しないかもしれませんが、言いたいのはGiverやTakerはその交換(交流)の過程で必ずしも値や価値観といった判断の差があるから、知っておこうと促したかったです。
勿論、私もオさんのように、日本のクラスメイトから同じことを言われました。

今回の図は暗示というか、今回のテーマを表していて私にしっくりきたのです。
お気に入って頂き嬉しく、探すのに1時間かけた涯があります。
親しき仲にも礼儀あり!! (T)
2017-02-05 04:30:54
「親しき仲にも礼儀あり」
即ち「心安いは不和の基」「親しき仲は遠くなる」「良い仲には垣をせよ」・・・これ皆「A is not B」を指し示す。

英語表現では、
A hedge between keeps friendship green.
Love your neighbor, yet pull not down your hedge.

「親しき仲にも礼儀あり」などという言葉はいかにも孔子が言いそうな言葉だと思った。又は道教系か??

で、ネットで調べた限りでは、孔子でも道教でも無くて、
日本の鎌倉時代の北条氏直の言葉だと有る。

そうすると成程いかにも日本的で、もののあわれ的諸行無常観が漂ってるようだ。

しかし同時に、
日本で500年近く前に(知識人の間では・・・)「個」の確立(識別)が既になされ、近代西洋哲学に匹敵している観がある。
恐山殿強調の「自己の実存」というのもこの系譜の気がして来た。。。。。「無我」には「自己の実存」が無いのだから・・・・
Unknown (T)
2017-02-05 05:40:37
アドラー心理学は言う;
「人に和合する事を願うな」「人に嫌われる(事をヨシとする)勇気を持て」「孤独を愛する心を持て」「人からしてもらう事に期待するな」・・・

しかし他方で彼は言う:
共同体の中に在っては、
あなたが自らを幸せで居られる為には、
「ただただGiverで在る事を目指せ」(=見返りを求めるな)。 「Giver &Taker」原理は成り立たないのだ。「Give & Give」しかないのだと・・・
表現方法 (礼儀の多様性)
2017-02-05 07:14:05
私がいた時代、25年前の韓国社会はその礼儀の式たりが日本と異なり、
感謝を表す場合、言葉でなく
態度で表すことが多かったと思います。

例えば、誰かに物をもらった場合
それが親しい人からか、そうでない人からかによって使われる言葉が違って、
公に使う社交辞令は日本とそれほど違っていない当たり障りのない決まり文句でした。
反面親しい人には社交辞令は言わず(言うと冷たい人だと思われる)大げさに喜びを演出し、次回見合ったものでお返しをするのです。

親切を受け取った場合も
上記のような暗黙の了解があって、
態度で感謝を表したりしていたのを覚えています。

確かに親切さのようなものには
GiveをされたらGiveで返すという面では、Take は手段になるでしょう。

このGIVE AND TAKE 法則は
心理学的に検証してみるのに意味があると思います。

仏教の教えの中ではTakeをどのように捉えるでしょう。
自戒の書!! (T)
2017-02-05 07:18:09
何故Give &Takeが機能しないかと言うと、

TakerがTakeしようと意図する時は、相手から搾取する気持ち、Takeすることを当然の権利だと思う心理が働いているという事だ。積極的にTakeを意識するとか無意識でも相手にGiverになれと強制する訳だ。

するとGiverで在ろうとする人に、
違和感・Take Advantageされたという残念観・閉塞感を生じさせてしまう事となる。いずれは関係は破綻する事が運命付けられるわけだ。
即ち、能動的なTakeは長続き出来ない事となる。


他方Giveするとは、
必ず受け取る相手が居る訳で、しかしそれは受け身的なTakeは発生するが、自発的なTakeとはならない。ここには相互関係において上下関係が発生しない。

Giverが自分は偉い(=相手より優れている)と思って高所に立ち、受ける人が下の立場で自らを卑下する形が出ると、たちまちお互いを軽蔑しあう。
斯様にGive&Takeのメカニズムには落とし穴が待っている訳だ。

熟年離婚を奥さんから突き付けられる、定年会社員の男が、今迄、家庭の為にこんなに頑張って働いて来たのに何故離婚状を突き付けられなくてはならないか、皆目見当がつかない・・・というケースと似ている。
何故なら男は自分をGiverだとばかり思い込んでいて、立場を利用してTake Advantageして、実質的にはTaker で在ったと言う事に思い至らないからだ。
Unknown (T)
2017-02-05 07:28:34
仏教的には少欲知足が基本思想だと思う。

少欲知足は自利行規制条例みたいなモノだろう。
自利行は必ずTakerに成らなければいけないから、それを最小必要限に抑える、そして外に眼を開いて、利他行(Giver)へと自分の心を向けていく・・・という事のようだ。
世界平和精神だが、現実の世界はそのようには動いていない。
構造 (システム体系)
2017-02-06 00:56:42
基本的にはGive&Takeは物理的な側面からは機能するが、意図や気持ちといった無形なことにはずれが生じるのですね。

その落とし穴やメカニズムのシステム体系を理解すれば、誤解が生じることは少なくなると思います。

仏教の思想『少欲知足』の意味は
欲を制御し
足りたことを知る
との意味でしょうね?
或る命題 (T)
2017-02-07 02:00:25
①.「Give &Take」の相互法則が存在すると同時に、
②.「水は高い処から低い処に流れる」の相関法則も存在する事を同時・並列的に考察すべきだろうと考えられる。

①は、上下関係の無いシチュエーションを想定し、
②は、上下関係そのものを指す。

①は、消しゴムの二者間相互の二方通行になるが、
②は、持てる者から持たない者への一方通行である

①は平等主義の立場で在り、右脳の世界で在り、共産主義の理想で在ったが、此の世の在り様として厳格な意味では現実的には成り立たない。
②は不平等の世相を表わし、左脳の自我世界であるが、では②を現実として受容した場合、より良き②の運用法を創出すべきだという事に視点を移行させるべきだとなる。

今の世は、
①の原理的問題では無く、
②の方法論的問題で混乱した世界が出現していると言う事のようだ。

すべて左脳問題だ。左脳に執着するから右脳が萎縮する世界観だ。
左脳の「有我」が勝って、右脳の「無我」がしぼんでいるから、治療薬として坐禅の思想がますます重要だと言えるだろう。
「少欲知足」解釈かたがた (T)
2017-02-07 02:27:57
どんなわずかなものでも満足すること。

僅かなモノにも感謝にあふれ、その心は満ち足りている。

少欲の人は求めること無く、欲する事も無いから煩いも無い。
足る事を知る知足の人は、たとえ貧しくてもあたかも富める者の如し。
足ることを知らざる人はたとえ富者でもあたかも貧者なり

【副作用・・・文明文化の発展は望め無いかもというジレンマがついて回る。
個人としてはYes,社会共同体としてはNoか???
元来、釈迦は個人主義者であり、団体行動には関心が無かった。】

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