ライ・クーダーは、

1970年のデビュー以来、地道に活動を続け、着実にミュージシャンとしてのキャリアを築いていった。
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その過程では、渡英してローリング・ストーンズにいいようにコケにされた事件もあった(実際にはソロ・デビュー直前である)が、レニー・ワーロンカーやラス・タイトルマン(義兄にあたる)といったワーナー・ブラザースの首脳陣の庇護もあり、売上高如何にかかわらず、ワーナーでの地位は磐石なモノだった。

その後、1978年に初来日公演を行った事で日本にとってのライ・クーダーは大切な存在となっていくのである。(果たして、ライにとっての日本はどれ程の価値だったのだろう?)

来日直前には「ヤングギター」誌は特集を組んだ。「ニュー・ミュージック・マガジン」誌はそれ以前からことあるごとにライを取り上げてはいたが、来日前来日後では、やはりその取り上げ方や頻度に劇的な変化があったように感じる。
日本人のライに対する関心度が急激に上がったのがこの1978年以降だ。

翌1979年には、立て続けに来日公演を敢行、この時は、弦楽器の達人、ディヴィッド・リンドリーとの共演で、息の合った非常に質の高い演奏を繰り広げ、日本人のライ・クーダーファンは拡大していったのだ。

音楽界のみならず、多方面からもライは注目を浴び始めた。

いち早く動いたのが音響メーカーのパイオニアだ。カーステレオの「ロンサム・カーボーイ」のCMにライ・クーダーの「ゴー・ホーム・ガール」を使用したのだ。
それからほどなくして、楽曲使用のみならず、ライ・クーダー本人が「ロンサム・カーボーイ」のCMに出演するようになり、お茶の間での知名度が大幅にアップした。CMで使用された「ビッグ・シティ」も日本人のハートに染み込んだのだ。
ライの出演シーンは、ギター演奏も、歌う姿も一切ない。あくまでキャラクター・モデルとしての出演だった。
しかも、一過性のものではなく、数年に渡り、ロンサム・カーボーイの顔としてライは頑張った。起用し続けたパイオニアの英断も特筆すべきであるし、とにかくライの勇姿は日本人の目に焼き付いたのだった。
本国アメリカでは、この極東のちっぽけな国のメディアで、ライ・クーダーがシブい演技(?)を決めていたなど知る由もなかったろう。日本もお粗末な面があるが、ライの自国であるアメリカもまた、アメリカの至宝と言っても過言ではない知的財産の流出を阻止できなかった体たらくである。

ライは日本のギター・メーカーであるタカミネとも接触している。アドバイザリー契約なのか詳細は不明であるが、ライ・クーダーの為のモデルも製作されている。(そんなに浅からぬ関係性のように当時は感じられたが、後にライはタカミネを一切手にしなくなる。)

そして、なんと言っても強烈に印象に残る出来事が喜納昌吉のアルバムに参加したことだ。このアルバムでは「すべての人の心に花を」のスライド・ソロの名演奏を残してくれた。
「戦場のメリー・クリスマス」にデビッド・ボウイが出演する事と同じ位、いやそれ以上の驚きだったかもしれない。ライの日本での人気はうなぎ登りであったのだ。

ブラウン管で日常的にライを観ることが普通となった時代、、、


しかし、何事にも始まりがあれば、終わりもあるのが世の常、いつの間にかロンサム・カーボーイからライの姿は消え、自然淘汰的に人々の心からもフェイドアウトしていった。

MTV時代に突入した1980年代、ライの音楽活動もまた苦境に立たされていった。ソロのレコードが全く売れなくなってしまったのだ。いくらワーナーの有力者と懇意にしているとはいえ、さすがにあまりの売れなさに、一部ではライは極貧生活を強いられた!という噂もあったのだが、奥様もプロのフォトグラファーだったのだ。無収入だったわけでもあるまいが、いずれにしてもピンチだったようだ。今まで散々ライと深く関わってきた日本なのに掌を返したように態度を硬化させ、手を携えることはしなかった。とても冷たい民族だなと感じたものだ。

しかし、なんの因果かライは映画音楽へ活路を見出だした。精力的に映画音楽家としての道を順調に邁進したのだ。そしてなにより音楽を担当したヴィム・ヴェンダース監督の「パリ・テキサス」がカンヌ映画祭でパルムドールを獲得した事により、より一層、ライの認知度は高まった。ただし、ミュージシャンとして、パフォーマーとしての存在感は、少なくとも、我が国においては失われつつあり、1979年の来日から実に9年間も来日は途絶えることとなる。この事は日本人にとって、渇望と絶望と忘却と冷酷を意味した。

サウンドトラック以外のオリジナル・ソロアルバムにおいて、実に5年のブランクを置いて「ゲット・リズム」は発表された。1987年のことだ。なにやらへんてこなストラトも使い始め、日本は少しザワツキ始めたのだ。

プロモーター、いわゆる呼び屋さんは黙ってはいなかった。麻薬による過去の逮捕歴により来日が不可能だったミック・ジャガーの来日が規制緩和により実現した1988年、ライの正式な招聘がアナウンスされた。「ゲット・リズム」レコーディング・メンバーによる来日公演は全て発売後、一瞬でソールド・アウト、いかに日本人が渇望していたかがわかる。このコンサートはそのまま伝説と化した。
その後、久々に日本のコマーシャルにも出演が決定!それが「アーリー・タイムス」。再びライはお茶の間に浸透した。
1989年、ライは来なかったが、ディヴィッド・リンドリーが単独で来日、翌1990年にはライとディヴィッドの共演による来日公演、それからライはバンド「リトル・ヴィレッジ」を結成するなど精力的に活動した。しかし、このバンド「リトル・ヴィレッジ」が失敗してしまい、少しメインストリームから外れた方向に進むようになり、再び来日は途絶えた。

それでも、1994年には奈良東大寺大仏殿前にて行われた大イベント「あおによし」に参加し、喜納昌吉やボブ・ディラン、ジョニ(ジャーニ)・ミッチェルらと共演し元気な姿を見せた。続けて行われた喜納昌吉&チャンプルーズのアメリカ・ツアーにライ・クーダーはドラマーのジム・ケルトナーと共に参加した。(補足、この年の春、奈良のあおによしの直前まで沖縄の歌姫達ネーネーズのアルバム「コザdabasa」のレコーディングに参加していた。)

翌1995年にはディヴィッド・リンドリーとファミリーライブの為、来日。リラックスした素晴らしい演奏を繰り広げ、大盛況だったのだが、ここから日本にとっては暗黒の時代が始まった。ライはワールド・ミュージックに傾倒し、どんどん日本とは疎遠になっていった。

ところでライは1988年の来日公演に、1960年代の日本製のチープな楽器を持参した。それがきっかけでビザール・ギターブームが起きたのだ。この日本製ギターとライとの関わりがひいては日本という国がギターというものを通して世界的に注目された側面であり、それにも触れないわけにはいかないだろう。

伊藤あしゅら紅丸という多才なクリエイターでありビザール・ギター・コレクターでもある日本人ともライ・クーダーは交流があり、古い日本製のビザール・ギターの草分け、その名も「グヤトーン」の最高級モデルを伊藤氏から贈呈されている。いわゆるビザール仲間?ってヤツだ。日本人にとっては嬉しいニュースだった。

その後、ライは突然、「絶対、日本には行かない!」と発言、物議をかもした。1995年の来日時に何か不愉快な事でもあったのか?それ以前から蓄積してきたモノがあったのか?いずれにしても気難しい性格が改めて露呈した形だ。

1995年のファミリーライブから実に14年の時を経て、前言を撤回してライの来日が決定したのである。「リトル・ヴィレッジ」を一緒にやったニック・ロウとの共演だ。2009年のことである。

しかし、以前のような熱狂ぶりはなかった。わりと高額だったチケット代も災いしたのか、客の入りも芳しくはなかった。


ライと日本との蜜月はこの時完全に終焉を迎えたのだった、、、