日々是好舌

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梅毒は始末の悪い病気です

2018年03月17日 13時13分07秒 | 日記
今回は静岡市葵区足久保口組神明原にある浄土宗の遍照山新光明寺の瘡守稲荷です。
瘡といえば瘡蓋であるが、これは傷などを覆う血や膿が乾いたもの。「疱瘡(ホウソウ)」は天然痘、「赤瘡(あかがさ)」は麻疹(はしか)の古名、「銭瘡(ぜにがさ)」は田虫の古名です。

しかし一般に「瘡・かさ」といえば黴毒、瘡毒(そうどく)とも呼ばれた梅毒(ばいどく)の俗称です。
梅毒はスピロヘータの一種である梅毒トレポネーマによって発生する感染症です。
第一感染経路は性行為であるため性病の一つとして数えられるものの、妊娠中、出生時の母子感染による先天性梅毒もある。
1940年代のペニシリンの普及以降、発症は劇的に減少したが、2000年以降、多くの国々で感染率が増加しつつある。たびたびヒト免疫不全ウイルス所謂エイズウイルスと併発するケースがあり、乱交、売春、コンドーム不使用に起因する。有効なワクチンは存在せず、抗菌薬の投与により治癒しても終生免疫は得られず、再感染が起こる。
『解体新書』を出した杉田玄白は1757年、25歳の若さで江戸・日本橋に開業し、町医者になりました。それから隠居するまでの50年、江戸のさまざまな病気を診たわけですが玄白が70歳の頃に書いた回想録『形影夜話』(1802年)には、次のような記述があります。
《已に痘瘡・黴毒、古書になくして後世盛に行はるる事あるの類なり》
 どういう意味かというと、「昔は医学書に天然痘や梅毒が書かれていなかったのに、今はずいぶん増えた」ということです。玄白が年を取るにつれ、梅毒患者は激増していきました。その一方で有効な治療法は見つからず、あらゆる医学書を読みあさったけれど、結局いまだにいい治療法がない。そして、これまで数万人の梅毒患者を診たという玄白は、次のような衝撃的なコメントを残すのです
「毎年1000人あまり治療するうち、実に700〜800人が梅毒である」
 一方、幕府医学所頭取の松本良順が書いた『養生法』(1864)には、《下賎の人間100人のうち95人は梅毒にかかっている。その原因は花街・売色に規制がないからだ》とあります。梅毒が花柳病と呼ばれるのは、このあたりに理由があるんですね。
 いずれにせよ、18世紀中旬にほとんど見られなかった梅毒は、19世紀中旬にはかなりの感染者がいた……つまり、わずか100年ほどで、日本に梅毒が異常に蔓延したことがわかります。
 日本で梅毒が初めて記録されたのは、1512(永正9)年のことで、歌人・三条西実隆の『再昌草』に記されています。《4月24日「道堅法師、唐瘡(からがさ)をわづらふよし申たりしに、 戯に、もにすむや我からかさをかくてだに口のわろさよ世をばうらみじ」》
 上の「唐瘡」が梅毒のことで、この年、京都では梅毒が大流行したのです。
 梅毒の起源ははっきりわかっていませんが、コロンブスがアメリカからヨーロッパに持ち込んだというのが通説。
 第1回航海でイスパニオラ島(ハイチ島)からもち帰り、1493年、まずバルセロナ全市で流行。1495年、フランスがイタリアに進駐したとき、傭兵にいたスペイン人からイタリア人に感染。ナポリで大流行したため、フランス人は「ナポリ病」、イタリア人は「フランス病」と呼びあいました。
 梅毒はヨーロッパ全域に広がったあと、大航海時代の波に乗ります。ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマ一行がインド航路を発見すると同時に梅毒もインドに上陸。その後、マレー半島経由で、16世紀の初めには中国の広東に達しました。
 やがて日明貿易や和冦経由で日本にも梅毒が伝来。関西で大流行を起こしたあと、江戸にもやってきて吉原などで一気に広まりました。中国や琉球経由だったため、日本では「唐瘡(とうそう)」や「琉球瘡」などと呼ばれました。
 前述したとおり、日本で梅毒が初めて記録されたのは1512年。ちなみに鉄砲伝来は1543年。ということは、梅毒は弾丸より速く日本にやってきたわけですな。恐るべし下半身パワー(笑)。
(余談ながら、後に吉原の隠語では最下級の遊女のことを「鉄砲」と呼びました。そういう遊女を買うと、梅毒に当てられるから)

さて、梅毒は日本人にとって脅威でした。それは有効な治療法がなかったからです。江戸時代まで、日本では「五宝丹」などの血液浄化の煎じ薬を飲む以外、何の対策もありませんでした。
 1775年、スウェーデン生まれのツュンベリーがオランダ東インド会社の外科医として長崎にやって来ます。そこで、梅毒の惨状を見て、ヨーロッパで普及していた特効薬を紹介します。この薬は1754年にオランダのファン・スウィーテンが発明したもので、0.104%の昇汞(しょうこう)液を服用するものでした。この薬の効果は劇的で、1776年までに長崎を中心に多くの患者が完治し、みな奇跡だと絶賛しました。
 ちなみに昇汞というのは塩化第2水銀のこと。服用量を間違えると水銀中毒になるため、おそらく、かなりの数の日本人が“水俣病”に苦しんだはずです。
(というか、特にヨーロッパでは水銀中毒になってよだれを流せば流すほど治癒すると信じられていました)
 江戸時代にはこんな川柳がはやりました。
 親の目を 盗んだ息子 鼻が落ち
 これがまさに梅毒の症状ですな。
 梅毒というのは4期に分かれていて、
 (1)感染後3カ月以内、陰部にしこり、潰瘍
 (2)3カ月以降、全身の皮膚に紅斑(ばら疹)や膿疱
 (3)3年以降、臓器、筋肉、骨に結節やゴム腫が生じる
 (4)10年以降、中枢神経系と循環器系を中心に全身が冒され、麻痺や痴呆、精神障害
(3)のゴム腫が崩れると瘢痕(傷)となるため、これを「鼻が落ちる」と表現したわけですな。
 ちなみに徳川家康の第2子、結城秀康は梅毒のため鼻が落ちて死にました。ほかには加藤清正あたりが梅毒病みの有名人。
あの野口英世がもっとも熱心に取り組み、成果をあげた分野が、梅毒の研究であったというのも意外です。
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