前回の高台寺の庭園からの続きですが、
その前に前回少し触れた遺芳庵(いほうあん)について…
大きな吉野窓が特徴的な茶室「遺芳庵」は
後世の人が灰屋紹益と吉野太夫を偲んで建てられ、
明治41年に紹益の旧邸跡から移築されたと…。
どうもオリジナルは鷹峯の常照寺に残されているらしい。
吉野太夫こと松田徳子は京都に生まれ、7歳で島原に預けられている。
初代吉野太夫は安土桃山時代の人物で、
本阿弥光悦などの文化人と交流があったとされており、
徳子は14歳で二代目吉野太夫の名跡を継ぎ、
天下の名妓と謳われるようになったそうだ。
和歌、連歌、俳諧、琴、琵琶に優れ、
さらに書道、茶道、香道、華道、囲碁を極めたと云う。
全盛期の吉野太夫は井原西鶴の「好色一代男」に
前代希代の遊女と記されるほどで、
その才色兼備は遠く中国まで伝わっていたそうだ。
そして吉野太夫に因んだ名前の「吉野窓」…。
この大きな円窓は吉野太夫が好んだこともあるが、
実際は完璧な円ではなく、窓の下部分が少し切り取られいる。
これは完全な円は仏教でいうと完成した悟りの姿。
吉野太夫はこの窓に完全では無い自分の姿を映し、
自らを戒めていたと云われている。
それ故に多くの寺院で見かける完全な円窓は、
厳密で云えば「吉野窓」ではないはず…。
又又、冒頭から脱線気味だが軌道を修正して…。
高台寺の一番高い位置に設けられた、
茶室というよりは茶屋風の二棟の茶席…。
重要文化財の「傘亭」と「時雨亭」……
伏見城から移築されたとされる二席は、
伏見城でそれぞれ「草堂」「高堂(学問所)」として、
又、両亭を総称して「安閑窟(あんかんくつ)」と呼んだとも云う。
この二席は千利休(1522~1591)好みの茶室、
又、一部のネットでは千利休作と紹介しているが、
伏見城建設(1592~)は利休の自刃後なので、
千利休は直接関係してなさそうだ。
「傘亭」は宝形造茅葺きの素朴な建物で
天井がなく屋根裏が竹で組まれ、
唐傘に似ているところから傘亭の名がある。
「時雨亭」は珍しい2階建ての茶室で、
2階南側の上段の間は柱間に壁や建具を設けない吹き放しとする。
高台寺の要所には女性の解説員が配属されていて、
不明点を尋ねると丁寧に答えてくれる。
私自身も一階の不可解なスペースについて…。
それは茶室空間としてではなく、
伏見城に在った時は池に併設されていて、
船着き場、舟屋としてのスペースらしい…。
西本願寺の飛雲閣にも舟屋が設けられていたが、
やはり秀吉の好みが表れている。
「傘亭」の南隣にある「時雨亭」は、
小堀遠州作とされる高土間廊下で結ばれている。
このご時世、ねねの道辺りは観光客も多く、
特に「ねねの寺」は若い女性が大挙押し寄せていた。
そしてこの最終地点まで上がってくるのだが、
一見田舎風の掘立小屋に一切興味を示さず、
ほとんどの若い女性が素通りをしていった。
そんな事を解説員の女性と雑談をしていたが、
それでも秋の紅葉の季節になると、
素通りしていたこの場所が若い女性で溢れ返るらしい。
あれ!嵯峨野路のワープ?
清々しい竹林が実に気持ちイイ!
どひゃあ!これも伏見城の遺構?
調べてみたら2012年の「龍の庭」という、
イベントに使われた龍の頭との事…。
まだまだ紅葉には程遠いが、
すでにカエデがうっすら色づいていた…。