自己実現を目指すと最後は苦しむ | 中学理科教師のつぶやき

中学理科教師のつぶやき

中学校理科教師として25年。ひとつの意見として、ここに私の日々考えたことを記録していきます。同業の方、現役生徒、現役親御さんとのネットでの交流もできるといいですね。

今日も、暑いなあ。

 

お祭りイベント出演のために

地元の郷土芸能の練習や寄り合いに

1週間くらい忙しい毎日を送っておりました。

 

郷土芸能もしかたなくやるのと

自ら進んでやるのでは

自ずと力の入れ方が変わる。

 

公務員を辞めた理由に

この郷土芸能をもっと力を入れて

やりたいなあというのがありました。

 

笛や太鼓、唄、踊りと

郷土芸能に参加するのにも

いろんなパートがあるわけで

 

師匠と呼ばれるクラスの人たちは

一通りできたりするのがすげーなーと

感心というか感服つかまつるわけです。

 

 

みんなみんなそのようになれるかというと

なかなかどうして

器用、不器用とか

人前で平気、引っ込み思案とか

そういう性格の要素も関係して

得意とする芸事に尻込みしたり

才能にストップをかけてしまうことも

 

私の場合は全くの不器用。

 

小学校の時は

カスタネットすら一定のリズムで

たたけない。

 

踊りは、正面を向いているうちは

なんとかなりますが

途中で、後ろを向いたり、まわったりすると

途端に自分の位置を見失います。

 

唄と人前だけは、職業柄自信がありまして

自称「1万人まで対応します」(笑)

 

こういった自分のやりたいこと

自分の得意を生かして

何かしらの目標を達成することを

自己実現と言います。

 

教育の目標の1つに

「自己実現を目指す」なんて言葉が

よく出てきます。

 

これは、自己実現を達成することで

生きることや活動自体に意欲が増すから。

 

意欲や関心を高めるために

自己実現の達成を1つの目標とするわけです。

 

これは、子供達の教育に限った話ではありません。

 

大人の世界。

さっきの郷土芸能でも同じこと。

 

生きていく勇気がなくては

意欲や関心が湧かなくては

仕事も家庭も人生も続くものではありません。

 

自己実現の目標がなしでも

続けられる活動は

どっかで脅迫されている強要されている活動。

 

やっぱり望ましい活動の目標として

自己実現は必要ということになります。

 

自己有用感、達成感、満足感といった

感覚を得られればOKとなりますが

 

自己実現の目標は

何でもかんでも良いのかというと

意外とそうでもない。

 

活動のレベルが

入門編だったり、初参加だったり

お手伝いだったりしたときは

 

誰かのお役に立つとか

言われたことを正確にやるとか

その程度で十分です。

 

ちょっと本格的になると

笛や太鼓を誰よりもうまくできるようになる

そこまでいかなくても

一人前の演奏ができるようになる。

 

踊りや唄なども同じですね。

 

そこまでは、大変よろしい。

そこまでたどり着くと

まさに自己実現の目標が達成されたわけで

活動に対する意欲関心

そして

自己重要感が感じられてよろしいわけです。

 

しかし

 

この後が実はつらい。

 

人間というのは

上り詰めた後の目標を持てるかどうかで

価値が決まるのではないかと

 

いくら腕が良くて

自己実現ができて

右に出るものがいないとしても

 

俺が俺が で

 

自己の実現ばかりを追い求めていると

せっかく得た自己重要感が

他人からは不要感

あいつ出しゃばりで邪魔とか

いちいちめんどくさいとか

そのように変質しかねない。

 

本人がわかっていて敢えて前に出るのは

ありかもしれない。

でも、周りが見えずに

自分の立ち位置がわからずに

突き進むのは、よくよく考えないと

自分の目標が足かせとなって

違う方向に行くことがあるので

要注意。

 

気がつくと、活動がうまくいかないときに

ある程度自分ができていると思うと

誰かのせいや、環境のせいにして

一番避けたい

被害者意識の虜となっているという。

 

ま、それでも、途中で気がついたら

謝ったり、テヘペロで軌道修正すれば良いんだけどね。

それはそれで、勇気と労力がいるしね。

時間もかかるしね。

 

ある程度、何かを極めたときは

次に向かって目標設定を検討し直す作業が必要。

 

最終的には、みなさんの利益

公共の福祉が基準となるでしょう。

 

アドラーの共同体感覚を身につけることは

最終的目標としてとっても正しいと思います。

 

でも、出過ぎちゃうけどね。私(^-^;)