この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。





アベルの唇は
仄かに紅い。
紅筆の先でそっとその薄紅を辿る。

柔らかく
筆に応えてその果肉は凹凸を変える。


赤は
唇に命を吹き込み
そこに妖しく宿る。


「綺麗になった?」

「すごく綺麗だよ」



サラリ
衣擦れをさせて
恋人は立ち上がる。

髪は
髪止めで止め
付け髪でふんわりと髷を添えた。


「あっ……。」

私は抱き止める。



「うまく歩けない……。」

甘いアルトが囁く。


細いヒールの小さな靴に
その足はぴったりなのだけど
恋人は
頼りなげだ。


手を添えて
まっすぐ立たせてあげると
にっこり微笑む。


赤に色づく唇が
くっ
と艶やかな曲線を描き、
私はときめく心を
そっ
と隠す。



フロックコートに
手袋
私も礼装だ。



「グレン
 初めて会ったときと同じだね。」

そして、
恋人よ、
君は今夜が初めてだ。

その美しさに
私は言葉もない。




「こうやって行こうね。
 君は
 足を痛めた私の妻だ。」

抱き上げれば
仄かに香水が薫る。

人影のない階段を
恋人を抱き
私は下りる。





音楽と灯り
さわさわと
集う人々のさざめきが
寄せてくる。




観音開きのドアは
開け放されている。


「どうだい?」

私は
囁く。


「…………ぼく、おかしくない?」

アベルは
小さな声で問い返す。



弦楽器の調べは
華やいで
紳士淑女の正装は
美々しくその場を飾る。


「綺麗だ。
 君が一番綺麗だよ。」


私は
そのドアを抜けて
ゆったりと
中に進んだ。



支配人が
テーブルの間を抜けて
私たちを迎えに
やってくる。


蝶ネクタイをキリリと締め
背筋を伸ばして
一礼する彼の目には
驚きの色はない。


「グレン様、
 奥様のお加減はいかがですか?」

「ありがとう
 部屋で食べるのは寂しいと言うので
 連れてた。

 少し腫れているので、
 足を置く台をお願いしていいかな。」


支配人の合図で
奥の
庭に面した席に
小さな足置きが準備された。


さあ
あそこまで
行くよ。

君がどれほど美しいか
皆が教えてくれるだろう。






「あら」

「まあ」

御婦人方は
さんざめく。

私たちが進む道に
さざ波が立つ。



胸にある恋人は
羽根のように軽く
そのドレスだけが腕に重い。



銀色の艶やかな絹、
ドレープは幾重にも重なり
包まれた肢体は
どこまでも華奢だ。

ふくらんでぴったりと袖に包まれた腕は
ほっそりと優雅に
私の肩に添えられている。



警戒する山猫のように
君は
私の胸から周りを見回す。


「こわい?」

囁けば

「ドキドキする。」
君は応える。



そっと椅子に下ろし
向かいにかける。

「食前酒は
 何にいたしましょう?」


ソムリエの問い掛けに
アベルは
ぷるぷると首を振る。

目は真ん丸だね。



「シャンパンを。
 妻は
 足を痛めてね
 酒は用心している。

 軽い
 ごく軽いものを頼むよ。」


アベル
首を振ってはだめだよ。



赤い唇は
熟した果実を思わせるのに、
その眸は
小鹿のようにおどおどとしている。



「ねぇ
 ぼく
 ほんとにおかしくない?」


アベルは
小さな声で確かめる。



「どうしてだい?」

私は
思わず笑みがこぼれる。



「だって
 皆
 見てるよ。」

目が合ってしまった老婦人の微笑みに
アベルは
ぼく?
ぼくなの?
後ろを振り返るのだ。



人生の達人の目は
誤魔化すのも
難しい。


男の子とは思うまいが
この艶やかな装いの下の幼さは
お見通しのようだ。


老婦人は
御主人に何か話しかけて
また微笑んで
アベルを見つめる。


「君が
 気に入ったんだ。

 笑いかけられたら
 君も笑ってごらん。」


アベルは
かちこちに緊張したようだが、
かろうじて微笑み返した。


すると、
ぱっと老婦人は顔を明るくする。

アベルも顔を綻ばせた。



ようやく微笑みが本物となり
肩の線が
目に見えて柔らかくなった。


シャンパンが届いた。
煌々と輝くシャンデリアの光を受けて
黄金色にグラスを満たす酒。



「ぼく
 …………お酒、
 初めてなんだけど……。」

その声が
なんともこころもとない。



先程の老婦人が
しげしげとグラスを見つめ
膝に置いた手を動かさないアベルに
気づいた。



うふふ
グラスを持ち上げるように
手まねをなさる。


アベルが
ぴくん
して
頬を染める。


「さあ
 グラスをもってごらん」

私は
自分のグラスを
そっと持ち上げてみせる。



アベルは
一生懸命
私の手の動きを見つめ、
細い指に
シャンパングラスの脚をつまんだ。


私が
まず一口飲む。
美味しい。
この味で間違いないはずだ。



アベルが
ふうっと息をついて
そうっと一口飲む。



「美味しい!」

思わず洩れる声に
また客たちの視線は集まる。



見るがいい。
教えてやってくれ。
繊細なグラスに白い指。
唇の赤に
シャンパンの黄金。


私の恋人は
自分の美しさを知らないんだ。



前菜に
スープ

魚料理
にパン


アベルのマナーは心配ない。

美しい若き淑女は
ひらひら
その白い手を動かす。


客たちは
初々しい若き淑女に
感嘆の眼差しを
ちらちらと送っている。




私は
ともすれば
その唇に目を奪われていた。

恋人の唇は
なんと甘く誘うのだろう。




ふっと
プディングを掬うスプーンが止まり
アベルが目を上げる。


「あっ
 この曲知ってるよ。
 覚えてる。」


コントラバスが
華やかなアレグロを支えている。
モーツァルトだ。


「小夜曲だ。
 綺麗な曲だね。」

私は
応える。


アベルは
首を振る。
そういうことではないようだ。


「あのね、
 グレンが迎えに来た夜ね
 聴こえてきた。」


……忘れていた。
いや
夜会の時間など
私にとって何の意味もなかった。



私は
アベルを見つめる。

「覚えていたんだね。」

「うん。」


私は期待していいのだろうか。




部屋に戻ろうと抱き上げれば
素直にその腕を
首に回す。

ラウンジに移っていく客たちの間を抜け
私たちは
階段を上がる。


「食堂、
 気に入ったかい?」

「うん
 あ、
 でも、
 次は靴に慣れてからにするね。」

「抱っこは恥ずかしいの?」

「……うん。
 皆が見るんだもの。」



部屋の前で
そっと下ろす。

「さあ
 どうぞ」

「まだ歩けないもの」

私は笑って
また抱っこする。



ドアは閉じられ
私は思う。


私は期待していいのだろうか。


画像はお借りしました。
ありがとうございます。



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