この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。




グロリアの作る空間は、
どこか優しい。

雪が止んで
日差しが庭の雪を眩しく輝かせると
部屋の中も明るくて
アベルはなんだか嬉しくなる。



「お日様だ!
 グロリア、
 晴れましたよ!」


コルセットもペチコートも
いつもよりずっと楽に感じるアベルは
ウキウキと動き回る。


まるで
ピンクの蝶々を部屋に放ったようで
グロリアは心が浮き立つ。





明け方の薄闇に
パジャマにガウンのアベルは、
やはりどこか怯えたウサギのような風情があった。



こうして
少女の姿ではあるが、
陽光に相応しく
また
動きやすい姿で送り出すだけで
子どもは様子を一変させる。




「アベル、
 教えてほしいの。

 グレンのことよ。
 さあ
 座って。」



とびきりのクッキーと
ウィルが愛する紅茶は
アベルを幸せにした。






グロリアは
幸せな少年から
幾つかのことを聞き出すことができた。



会ったのは父親の館。
アベルはその館から出たことがない。
小さな時に会った不思議な人。
この秋にグレンが窓から入ってきた。
その夜、
グレンに連れられて館を出た。




 グレン、
 とても待っていたのね。
 でも、
 アベルには嵐だわ。
  突然の嵐。




「そう。
 グレンと旅に出て
 秋から冬を過ごしてきたのね。」

コクン
頷くアベルに、
グロリアは
もう一枚とっておきのクッキーを出した。


にこっ
小さな両手で
大切そうにクッキーをもつアベルに
グロリアは尋ねる。



「あのね、
 アベル、
 もしかして、
 クッキーやキャンディは
 食べたことがないの?」


「あ、あります。
 グレンが…………。」

「グレンが
 食べさせてくれたのね。」

「……はい。」


「このクッキー
 お気に入りなのよ。
 おいしい?」


「うん!」



胸に畳んだ両手が捧げもつクッキーは
また大切そうに
口に運ばれる。


サクッ
かじると甘さを楽しむように
小首を傾げる。





 この子は、
 本当に愛されたことがないんだわ。
 恐ろしいこと。

グロリアは
アベルの家族については
考えないことにした。


厄介払い……。
この可愛らしい姿も
目に入っていたかどうか。


病弱な男子。
跡取りがどうだと騒ぐ人々の中には
それを忌み嫌う連中もいる。
グロリアは世情に通じた女だった。


問題は次だ。


「外に出てみたかった?」


「はい!
 憧れていました。
 あの丘を越えて行きたいって。」


「外の世界はどう?」




「すごく綺麗でした。
 えっと……
 銀杏がどこまでも黄色く染まってて
 その道を二人で行きました。

 綺麗でした。」


「そうね
 世界はとっても美しいわ。」



「はい!
 すごく綺麗だって思いました。
 星がたくさんあったり
 湖が凍っていたり
 馬に乗って走ったり
 ドキドキしました。」



「じゃあ、
 出てこなければよかったって
 思うことはある?」



「…………ご飯。」


「ご飯?」


アベルは黙りこんだ。

グロリアは続ける代わりに
アベルの手をとり
声を弾ませてその顔を覗き込んだ。


「ねぇ、
 アベル
 見てほしいものがあるの。」


戸惑ったように
アベルは顔を上げる。




グロリアは
いそいそと立ち上がり
居間を出ていく。


そして、
ドアを開けて戻ってきたグロリアは
結い上げた髪は白く
目尻から頬は皺を刻んでいながら、
少女だった。



胸に抱いた大きな本は
どっしりした革に装丁されている。


テーブルに置かれたそれは
辞書だった。
見つめるアベルの前に
グロリアの老いた指がそっとページを開く。


菫の押し花が
現れた。



「これはね、
 ウィルが摘んでくれたの。

 今、
 グレンと話しているでしょうね。
 私のウィル。」


グロリアの微笑みは
その菫がどんなに大切なものかを告げて
誇らかだった。


ふふっ
アベルに笑いかけ
グロリアの語りは始まった。



「ねぇ
 アベル、
 こんなおばあちゃんにも
 少女の頃はあったのよ。」


アベルは
にっこりと笑い返した。
ビスクドールは、
素直に笑うことを教えられていた。




「恋に憧れていたわ。
 胸を弾ませてね。

 でも、
 結婚って
 そういうものじゃなかったの。」


グロリアは
憧れに輝く眸から
ちらと影を覗かせて語る。


「大きな館に入ってね、
 ここで過ごすんだと言われたわ。

 旦那様はほとんど
 そこには来なかった。
 そうね、
 アベルに似ているかも。

 狩りのシーズンに現れる人、
 そして怖かった。
 最初の夜は怖かったわ。」


アベルが
いつしか目を見張って聞き入っていた。
人の声で語られる人生の物語を
アベルは初めて聞いていた。



「子どもはすぐできたのよ。
 本当に可愛かったわ。
 二人授かったの。

 そしてね、
 旦那様のいない館でね、
 子どもと三人で過ごしていたらね、
 ある日
 男の人たちがやってきて
 旦那様がとんでもないことをしたんだ
 だからお金を返してくれって
 怒鳴り散らすの。

 世界が変わったわ。」


アベルの目は真ん丸になり、
グロリアはくすくす笑った。


「私ね、
 そのときから大人になった。
 子どもを守らなきゃ。

 そしてね、
 旦那様も守らなきゃならなかった。
 だって
 そうしなくちゃ生きていけないでしょ?」


グロリアの声は誇らかに明るく、
眸は悪戯っぽく煌めく。


「私はね、
 家長になりました。
 家のことも資産の管理も
 すべて私が取り仕切る。

 旦那様は
 相変わらず館には戻らなかったわ。
 狩りのシーズンも戻らない。

 そしてね、
 本当に行方知れずになってしまったの。

 船が遭難したんだとか、
 女のトラブルで刺されたとか……。

 あ、
 とても見場の良い男だったから
 そんなトラブルも実際多かったのよ。」


アベルが見つめる中、
グロリアは、
ここで一息ついた。



壁際に並ぶ
愛らしい小物たちを
静かに見やる。



アドベントカレンダーは
残り一つの窓を残し
天使たちが覗いている。



磁器の人形たちは、
夢見るように
踊ったり
花を摘んだりしている。



ふうっ
長く息を吐くと、
グロリアは
見つめるアベルに微笑みかける。


「私は
 夢中で生きてきました。
 旦那様の存在を気にすることもなかった。

 でもね、
 子供達が巣立って
 資産管理もすっかり身に付いてしまって
 毎日特にすることもなくなるとね、
 ふっと思うようになったの。

 もし、
 恋が訪れていたらって。」


グロリアは
羞じらうように言い淀む。


「ずっと館を出ることもなかったから
 外に出てみたくなったのね。

 思いきって旅行に出ました。
 イタリアの保養地でね
 しばらく逗留していたの。」


グロリアの指が
しっかりと握られ
アベルは思わず身を乗り出す。


青い眸なんだ。

アベルは
うっとりと上がるグロリアの眸の色に
改めて気づいた。



「ある日、
 ホテルのラウンジに
 彼が入ってきました。

 〝ウィル〟だ!
 そう思ったわ。

 素敵な横顔、
 品のある仕草。

 夢に描いた通りの彼だった。」


驚いたようなアベルの眸に
あっ
グロリアは笑う。



「他に男性も知りませんからね。
 旦那様の名前で
 空想したりしてたのよ。

 ウィリアムはウィルよね
 なんて
 呼び掛ける声を想像したりね。」


そう口早に説明し、
グロリアは頬を染めた。


「〝ウィル!〟って
 私は呼んだわ。

 旦那様じゃないって本当はわかっていたの。
 だって
 私の声は思いきり弾んでいましたからね。

 でも……そのときは、
 〝ウィル〟なんだって思おうとしていたみたい。

 彼はひどく驚いてたわ。」



グロリアは
にっこりと笑い
紅茶を口に運ぶ。


アベルは
小首を傾げて考え込んだ。



「あの……それじゃ……。」


「彼は
 私の〝ウィル〟になってくれました。
 でもね、
 面白いのよ。

 私に触れないの。
 触れてはいけないって思うみたい。

 記憶を無くしてしまったのよね
 って
 私は言ってあげてるのよ。」


グロリアは静かに目を上げた。


「アベル、
 私は〝ウィル〟に出会えて
 幸せです。

 ここに挟んであるのは
  ウィルが摘んでくれた花たちよ。
 私のウィルは彼です。

 どのくらい幸せか
 ウィルにわかってもらえたら
 って
 思ってるのよ。」


そして、
静かに大きな辞書のページを
繰り始めた。


野バラ
サンザシ
百日草
…………。


散歩する穏やかな老夫婦。

夫は花を摘み妻に差し出す。
静かな愛が交わされては降り積もり
そこにあった。




「アベル
 あなたは
 どうかしら?」

グロリアが
静かに切り出した。



アベルは
呟くように話し始める。


「ぼく……死んでしまうはずでした。
 ぼくが倒れたとき、
 ロンドンから呼び返されて、
 父は言いました。

 死んだら呼べ。
 死んでもいないのに
 なぜ呼ぶんだ。

 怒ってました。」




グロリアは
危うく
固く閉じてしまいそうになる目を
必死に開き、
語るアベルを見詰める。


アベルは
そんなグロリアに気づく様子もなく
ただ呟く。


 
「ぼくは死ぬのを待ってました。
 みんなも待ってたけど、
 ぼくも待ってました。


 でも、
 グレンは違うんです。
 生きてくれって思うみたい。


 ぼく
 消えてしまいそうになったんです。

 このまま消えてしまえたら
 やっと終われるって
 嬉しかった。」


グロリアは
息を詰めて見つめる。

アベルは
さっき開けたカーテンから注ぐ光の中で
本当に日に透けていくように
感じられた。


「ぼくと
 ずっと一緒にいたい。
 ぼくを
 待っていた。

 そう言いました。

 そして、
 泣くんです。

 グレンの涙がポタポタぼくを濡らして
 なんだか不思議になりました。


 そして、
 〝アベル〟って呼ぶんです。
 ぼく、
 名前を呼んでもらうの
 初めてでした。

 〝アベル〟って呼ばれて
 ぼく
 …………お腹がすいてるって
 ………………わかったんです。」



声が
どんどん小さくなっていった。




光の中に
アベルが崩れ落ちる。



カチャーン……。


カップを取り落とし
グロリアは
アベルに屈み込んだ。


「アベル!」

その声に
微かに瞼は震え
唇からことばは零れる。


「グレン……」


画像はお借りしました。
ありがとうございます。



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