京都マラソンの影響を気にして、当初予定していたバス移動を避けて、電車を乗り継ぐことにしました。

最寄り駅から2回乗り換え1時間弱、地下鉄東西線の東山駅から、平安神宮を目指し15分ほど歩いたところに目的地があります。

Tシャツ、ショートパンツ、ラグ、タオル(2枚)

iPod、iPhone、ポータブルキーボード、方眼ノート(B5サイズ)、V-Corn(3色)

ひとつひとつ、確認しながら鞄に詰め込んだにもかかわらず、大切なものを忘れてしまいました。

【財布】を持たずにここまで着てしまったことに気がついたのは、インストラクターのMarkと初めてのご挨拶をかわし、いざ、レッスン料をお支払いしようと思ったその時になってでした。

脳の機能に異変か?

バンドエイドで応急措置を施した前頭部ですが、月のクレータークラスの穴が開いてしまうほどの衝撃をまともにくらったわけですから、注意力が散漫になったり、記憶が飛んでしまったのかもしれません。

「大丈夫です。わたし待ってますから」

と、やさしく接客してくれるMarkではありましたが、片道1時間、往復2時間をかけて財布を取りに戻る空しさを思うと、頭の中が、ハイターで漂白したシーツのように真っ白になりました。



先々週、たまたま上映中の「沈黙」を観た後に、思いのほか興味深く、原作を読むことにしました。

原作の内容に忠実に映画化されており、映像ではつかみきれなかった心象風景を味わうことができました。

苦さの効いたビター味です。

キリスト教を扱った作品で、司祭”パードレ”からキリストの教えを学ぶわけですが、今日は、京都でMarkからヨガの教えを学んできたわけで、なにがなんだか、頭の中が錯綜してしまいました。

ひとつひとつ丁寧に選ばれた言葉が、日本語圏の文化をベースとした日本語の使われ方と微妙にニュアンスが異なっていることも、頭の中に錯綜が起こった原因だったと思います。

言語化されたカラダの動きを理解して、自分のカラダで再現するという一連の動作は、流暢な日本語だとその雰囲気に流されrてしまうところを、たどたどしい日本語だからこそ、ひとつひとつに意識のくさびを打つことが出来ます。

東洋的な暗黙知を、一旦、西洋的な科学のフィルターにかけてから学ぶというのは、私には合っているのかも知れません。

シャンティ、シャンティ、シャンティ

お金を支払いに行くだけではなく、もう一度、レッスンに参加することを約束しました。

空の綺麗な平安神宮あたりにて

 
 
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