柴犬日記と犬の児童小説

初めて飼った犬の記録と犬が出てくる児童小説+共感した記事

カズとおじいちゃん<1>

2019-01-13 19:24:21 | 小説
中国地方最高峰の大山は鳥取県の西部に位置し、日本海に突き出した弓浜半島の付け根近くにそびえる。標高は1729メートルで西側から見ると富士山に似た山容を誇り、伯耆富士の異名も持っている。その中腹に広がるスキー場から眺める弓浜半島は、眼下の米子市街地から幅の狭い砂州が海面を左右に二分するよう右方向へ弓なりに曲がっていく。緩めのウエアを着こんだ小柄な小学五年生の和彦は、リフトを降りて初心者コースのスタート地点に立っていた。視線は砂州の先端にある街、境港市に向けられていた。その境港は和彦の住んでいる街なのだ。
弓浜半島の向こうには左から右に向かって三百~五百メートル級の山々が細長く連なってくる島根半島があり、弓浜半島を形作っている砂州の先端をせき止め陸続きのように見えた。弓浜半島の左にある水面は島根半島と手前にある米子の平野部とに囲まれてまるで湖のようだ。しかし、実際には島根半島と、その横っ腹に突き上げていく弓浜半島の先端との間には幅二百㍍ほどの境水道が通っていて日本海とつながっていた。
「わーあ、地図からは想像もできない絶景だなあ」
和彦は真っ青な空の下で灰色にかすんだ海の中に、くっきりと浮かび上がる故郷の景色に思わず声を上げてしまった。
だが、その感動も束の間、我に返るととたんに憂鬱になってきた。ひどい運動音痴でキャッチボールさえまともにできないのに父雪男の人生論に説き伏せられて、ずっと拒んできたスキーに連れてこられていたからだ。「人は体験して初めて物事への興味が湧いてくるのだ」二時間ほど前の朝食のときからスキー場に来るまで雪男はそう繰り返した。
それなのに雪男はゲレンデに来ると自分のスキーに夢中になった。和彦が板をハの字にしてまっすぐ滑り下りられるまでは、つきっきりで教えたが、バランスを崩しながらでも左右に曲がれるようになると、いつの間にか初心者コースの上にある上級者コースへ行ってしまった。
一人取り残された和彦にはさらなる苦痛がのしかかってきた。この日のゲレンデは、まだ二月中旬というのに春を思わせる陽光がざらついた雪面を解かし、ゲレンデのあちこちで黒土が顔を出していた。上手なスキーヤーは黒土を避け、あるいは避けることでスラロームを楽しんでいるかのように滑っている。和彦の腕前では同じ幅のターンでしか滑られないため、目の前にきた黒土を避けることができない。土に触れた板にはブレーキがかかり、そのたびにつんのめって転んでしまった。コースのスタート地点に立ち、景色を眺めているときだけが唯一落ちつけるときだった。
「きゃあー」
和彦の右隣にいた女性スキーヤーがいきなり転倒して甲高い声を上げながら大きなお尻で和彦の右ストックを跳ね飛ばした。その衝撃で前のめりになった瞬間、板の止め金具が外れ、和彦はうつ伏せになったまま五㍍ほど滑り落ちていった。
「もうっ、お父さんったらどこ行ったんだ」
独り言を言った和彦は口に入って来たざらめ雪の粒をぺーっと吐き出し、ゴーグルが額の上までずれあがった顔を雪面にうずめた。ひんやりとした感触がいら立った和彦の心を幾分かは鎮めた。
しばらくして起き上がり、両方の手袋を取ってウエアの袖口に入り込んできた氷の粒を小さな手でかきだした。ニット帽はどこかに飛んでいって頭にはない。両手のストックはかろうじて握っていたが、二本の板は転んだ場所にとどまっていた。
「ぼくー、大丈夫ー?」
上の方から女性が頼りなさそうな声で呼びかけてきた。声がする方へ振り向くと急斜面で真っ赤なウエアを着た男が、猛スピードで直滑降する姿が目に入った。そしてあっという間に和彦が衝突された地点まで滑り下りて来て、スキー板を真横にして周囲の誰もがよけきれないほどの雪しぶきを上げ急停止した。散らばっていた二本の板を拾い上げ右肩に担ぐと、左手でゴーグルを外して和彦に笑みを送った。
「やっぱりお父さんかあ」
うれしさと腹立たしさで和彦は複雑な気持ちになった。板を担いだまま滑り出した雪男は、雪上で裏返っていたニット帽を左ストックの先でひょいと拾い上げ、和彦の前で小さな雪しぶきを上げて止まった。
「お父さん、そばにいてよ。僕うまく滑れないよ」
 和彦は力いっぱい抗議した。
「すまん、すまん。今シーズンはもうだめだなあ。暖冬がうらめしいよ」
 雪男はそう言いながら和彦に帽子をかぶせ、板をはかせてやった。雪男の的外れな答えに和彦はいらついた。
「スキー中のお父さんには何を言ってもむだだね」
再び手袋を着けた和彦は意を決し滑り出した。雪男は和彦の後ろを滑りながら声を張り上げた。
「方向を変えるときは自分で板を動かすなよ! 斜面に垂直に立てば板は勝手に曲がってくれるから!」
アドバイスした雪男は頂上行きのリフトの方へ滑り下りていった。
「板よりお父さんの方が勝手じゃないか!」
和彦は雪男の背中に向かって大声で叫んだ。周りにいたレッスン中の女子大生たちがどっと笑い声を上げた。
               ◇
「お母さん、何であんなわがままな人と結婚したの。僕、スキー場で一人ぼっちにされたんだよ」
 スキーから帰ってきて晩ご飯を食べている和彦は、テーブルをはさんで真向かいに座っている母の公子に甘えた声で尋ねた。雪男は草野球仲間との会合で家にはいなかった。
「お父さんったらしょうがないわねえ。お父さんは一人っ子でおばあちゃんに甘やかされて育ったのよ。だから何でも自分中心に考えちゃうの」
「ふーん。だったら僕もわがままに育つのかなあ。一人っ子だから」
 公子は一瞬、しまったというような顔をしてうつむいた。和彦の言葉にではなく別居している義母を悪く言ってしまったことへの気まずさからだった。
「ねえ、お母さんったらどうしたの」
 和彦の問いかけに我に返った公子は慌ててしゃべり始めた。
「和ちゃんは大丈夫よ。小さい時から良い悪いはしっかり教えてきたし、けじめのつく子に育ててきたつもりよ」
 和彦は公子のお墨付きに安心した。和彦は父より母が好きだ。何でもせかせかと勝手に物事を進めてしまう雪男に比べ、公子は周りを気遣いながら自分は我慢してでも相手が喜ぶように振る舞っていた。和彦の身の回りのことでも和彦の意向を聞いて行動している。だから和彦は公子に絶大な信頼をおいていた。
「で、どうしてお父さんと結婚したの」
「そうねえ。お母さんはここぞというときに決断できないタイプなんだよね。それに比べお父さんは決断力があって行動力もあるわ。真反対の性格にひかれたのかなあ。それに性格も明るいし」
「明るいっていうより軽いんじゃない」
 和彦は母が愛情をにじませる父へかわいらしいやきもちを焼いた。
和彦は自分の部屋に戻ると机の前に座り明日の時間割を見た。週明けの月曜日は一時間目が体育の授業だ。
「あああっ、いつになったら体育の授業から逃れられるのかなあ」
和彦にとって毎週が過酷な授業でスタートするのだった。
               ◇
和彦の通う市立誠倫小学校は明治の初めに開校した伝統校だ。最盛期には一学年十クラスを超えていたが、四十年ほど前から児童が減り始め、今では一クラス四十人弱で一学年二クラスになった。体育の授業を受け持つのは和彦のいる一組担任の男先生で二組と合同で授業をしていた。
今日の体育はミニバスケットだ。和彦は更衣室で体操服に着替えるときから心臓の鼓動が波打っていた。おまけに男女別々のコートで同時に試合をするのかと思っていたら、男子が先に試合をし、その間、女子はコートサイドで応援するというのだ。特に好きな女子はいなかったが、女子の前で運動神経の鈍さをさらすのは恥ずかしかった。
「いいかみんな。一組と二組との対抗戦だ。出席番号順に五人ずつ試合に出るんだ。五分ごとにホイッスルを吹くから次の五人がコートに入れ。総合得点で競うぞ」
 体育館のコートの中央に四十人近い男子を並べた男先生は、ステージの上から声を張り上げた。ほぼ同数の女子はコートをぐるりと囲むように陣取っている。第一試合の一組メンバーは弘人、高貴、司、卓也、壮太の五人だ。でっぷり太った壮太を除く四人は市営団地に住む児童でつくる学童野球チームに所属しスポーツは得意だ。特に弘人は運動神経が抜群で体育ではいつもヒーローだった。和彦はこの四人をいつもうらやましく思っていた。
「ヒロトくーん、コーキくーん、頑張ってえー」
早速、コートに立つ弘人たちを応援する女子の声が飛んできた。コート際で体育座りしていた和彦は、胸の中でうらやましさが妬みに変わっていくのを感じた。弘人は声援が飛んできた方に顔を向け、右手の親指を立てて満面の笑みを送っている。このようなシーンをよく空想の中で思い描いていた和彦には、現実ではとてもまねのできない演技だった。
ピー
 男先生のほおが膨らんで試合が始まった。二組の選手がパスミスしたリバウンドを高貴がすくい上げた。司、卓也との素早いパス回しで相手ゴールに迫り、最後のパスを受けた弘人がゴール前で軽やかにジャンプしてシュートを決めた。あっという間に二点をもぎ取った。
「キャー、ヒロトー」
一組はもちろん二組の女子まで大歓声を上げた。四人はコートの中央へ得意顔で駆けながらハイタッチを繰り返した。壮太はコートの端で手持無沙汰な様子でうろうろしていた。和彦は壮太の無様な姿が自分と重なり、第二試合の出番を前にこの場から逃げ去りたい気持ちでいっぱいだった。
ピピッピー
 第一試合の終了を知らせるホイッスルがなった。コートにいた十人の男子は一斉にコート外に出ていく。女子が記入している白板の得点は十対二で一組が圧倒的にリードしていた。次に出場する男子がコートに入っていった。和彦も続いた。ルールもうろ覚えでゴール近くに立っていれば何とか格好になるぐらいに覚悟を決めた和彦だったが、いざコートに立つと膝が震え自分の足が地についているのかも分からない状態だった。一組のメンバーを見回すと和彦より劣る男子はいなかった。
ピー
 運命のホイッスルがなった。和彦はホイッスルの音が鳴りやむと同時に頭が真っ白になり、周囲にいる男子の顔がかすんで見えて味方なのか敵なのか区別がつかなくなっていた。遠くの方でボールの奪い合いをしているシーンがまるですりガラスを通してるようにぼやけて見える。ボールが床にバウンドする音は全く聞こえず、女子の歓声も「ワオーン」と壊れたラジオから出る音のように聞こえた。
和彦は知らぬ間にゴール近くまで来ていた。突然、目の前にドリブルをする大柄な男子が見えては消え、消えては見えるコマ送りのように近づいてくる。「ひょっとしたら僕にパスしてくれるかも」和彦はドキドキしながら両手を前に構えてパスを待った。が、その男子はくるりと向きを変え和彦に背中を向けた。和彦が気を緩めて両手をひっこめたその瞬間、背中を向けたままの男子は右腕を前方から後ろに振り下ろし、手のひらに載せたボールを和彦の足元に放り投げた。和彦は棒立ちになったままボールが後ろのコート外へ転がっていく音を聞いていた。
「ちぇっ、せっかくフェイントかけたのに」
 大柄な男子が顔をねじ曲げて毒づいた。
「今の、キャッチしないとなー」
「あいつ鈍いなあ」
背後のコート外にいる男子のひそひそ話が聞こえてくる。「みじめだ」肩をすぼめてコートの中央に戻っていく和彦は、斜め前に一塊になって応援していた数人の女子と目が合ってしまった。その視線を避けようとしたが、そのときにはすでに女子の方が全員下を向いていた。視野の端に見える、うつむいた女子たちは歯を食いしばって必死に笑いをこらえているかのように和彦には思えた。
                 ◇
悪夢のような体育の授業が終わり、幾分か気持ちが楽になるのかと期待した和彦だったが、その後の授業は何を勉強したのか全く覚えていない。一人でとぼとぼ歩いて校門を出ると、待ち伏せしていた弘人たち団地四人組が背中を向けたままバックしてきて、振り向きざまにそれぞれ手に持っていた縦笛を和彦の胸元に突き付けた。
「どうだ。びっくりしたか」
 弘人が薄ら笑いを浮かべてあごの下にある和彦の顔をのぞき込んだ。仲間がフェイントをかけてパスしてきたボールをキャッチできなかった和彦への当てつけだった。ミニバスケの男子対抗戦は結局、二点差で和彦たちの一組が逆転負けしていた。和彦が後ろにそらしたボールをもしキャッチしていたら、仲間の誰かがそのボールを受け取りシュートできたかもしれない。そうすれば同点引き分けで敗北することはなかった――というのが四人組の考えのようだった。
「ガッガガジー、ガッガガジー」
今度は奇妙な言葉を発した高貴が万歳するように両手を頭の上に差し上げ、はね跳びながら踊り始めた。ほかの三人は和彦を指さして笑い転げた。和彦の両ほおは普通の子より少し膨らんでいる。テレビのコマーシャルで口に菓子を入れてほおを膨らませた少年が登場するシーンの擬音をまねたものだった。
「ご、ごめんなさい。僕のせいで……」
和彦は言い終わらないうちに泣き出し家に向かって走り出した。
「カズーッ、団地の前を通るなよー」
「持ち家だからっていい気になるなよー」
 両親が共働きで首に鍵ひもをぶら下げている団地四人組から理不尽な言葉が和彦の背中に浴びせられた。
                ◇
「和ちゃんどうしたの。ご飯できてるのに部屋に閉じこもったきりで。もう八時なのよ。学校で何かあったの」
 ノックして少し開けられたドアの隙間から福々しい色白の顔がのぞいた。机の前に座って突っ伏していた和彦は両手でほおの涙をぬぐいながら振り返った。
「和ちゃん、泣いてたの」
 公子はドアを開け和彦の前にやって来て、膝をついてかがむと和彦の顔を見上げた。
「和ちゃん、やっぱり学校で何かあったのね。何があったか言ってごらん」
 公子の目は真剣そのもだ。
「お母さん、僕、ほんとにお父さんの子なの」
「えっ、なんてこと言うの。お父さんとお母さんの子に決まってるじゃないの」
 公子は笑いながら和彦の額をおどけるように小突いた。
「だって僕、運動神経ないんだもん。お父さんは野球やスキーが上手だよ。僕は何でこんなに運動音痴なのかなあ」
「なーんだあ。そんなことだったの。ふふふふ。和ちゃんはお母さんに似たのよ」
 小柄な公子はほっとしたようにころころと笑った。
「笑いごとじゃないよ、お母さん。僕……、今日、女子の前で大恥かいたんだからね」
 和彦は真顔になっていた。
「あら、そうなの」
 公子は和彦の口から「女子」という言葉を初めて聞いて戸惑った。
「何があったの、和ちゃん」
「ミニバスケの試合で僕、パスをキャッチできずに絶好のチャンスをつぶしてしまったんだ。それを見ていた女子が陰で笑ってたんだよ」
「なんでパスを取れなかったくらいで笑われるのよ。和ちゃん、考えすぎよ」
「だってほんとに笑ってたんだもん」
 えらく女子にこだわる和彦に公子は自分の小学生時代を思い起こした。確かに男子に気に入られようと髪形や服装に心血を注いだ時期もあったが、和彦のように何かがきっかけで傷ついたというようなことはなかった。自分に特段優れた能力があるとは思っていなかったし、誰かと競って出し抜いてやろうといった野心もなかった。だから特に劣等感もなく総じて明るい子供時代だった。和彦が運動音痴なのをこれほどまでに気にしているとは思ってもみなかった。
「それに……」  
和彦は唇を震わせた。
「それに何なの」
「僕、弘人君がうらやましい。スポーツは何でもできていつもクラスのヒーローだもん。僕だってたまにはヒーローになりたいよ」
 公子は和彦に自我が芽生えつつあることを肌で感じた。
「カズヒコーッ。ウイック。ヒーローが何だってえー。ウイッ」
 いつの間にか帰宅していた雪男がネクタイを乱暴に緩め、顔を真っ赤にして開け放たれたドアから崩れるように部屋に倒れこんできた。
「わーあ、お父さん、お酒くさー」
 和彦は左手で鼻をつまみ机からノートを右手で拾い上げて、うちわのようにしてあおぎ始めた。
「まあ、あなた、また飲んできたのね。しょうのない人ねえ」
「おーい公子、喜んでくれー。今月に入ってもう六台も売ったぞー。これが喜ばずにおられるかってんだい」
 雪男は自動車の販売会社に勤めていた。工業高校を卒業し就職して以来、営業一筋だ。車が売れたときは必ず顔を赤くして上機嫌で帰って来た。
「カズッ。さっきヒーローが何とか言ってたけど何のことだー。ヒック」
「お父さんには関係ないよ」
「関係ないとは何だー、ウィ。俺はウィック、お前の父親だぞー、ウィッ」
 雪男はそう言うと和彦の部屋で大いびきをかいて寝込んでしまった。
「お母さん、こんなんじゃ、うるさくて寝られないよう」
「そうね。ご飯食べたら今夜はお母さんの部屋で寝ようか」
「うん!」
 公子はベッドからひきはがした掛布団と毛布を雪男にかけながら、和彦が女子のことを気にしていてもまだ子供だと思って安心した気持ちになった。
 翌朝、和彦が洗面所に行くと、かみそりでひげをそっていた雪男が鏡に映った和彦を見ながら珍しく和彦の意向を探るような物言いで尋ねた。
「カズッ、お父さんの野球チームにペットショップの社長がいるの知ってるよな。六か月になるオスの柴犬が売れ残ってるんで安くするから買わないかってみんなに話してたんだ。どうだ犬を飼ってみる気はないか。何事も体験が大事だからな」
 雪男は母親のそばを離れず覇気のない和彦に何か夢中になれるものをと日ごろから考えていた。特に今朝は和彦が運動神経のなさを嘆いたことを公子から聞き、何とかせねばという気持ちが強まっていた。右手にかみそりを持った雪男は左手でほおをつまんで皮を引き伸ばしたり、あごをしゃくってみたりと百面相のように顔の形を変えるので、その言葉は聞き取りにくかったが、和彦は何だか胸がときめいた。いつもなら新しいことに挑戦することを嫌がる和彦は、今日に限って「飼ってもいいな」と前向きな気持ちになった。やはり昨日のみじめな体験を何とか払しょくしようという心理が働いていたのかもしれない。
「だめよ。犬なんか絶対だめ」
 洗濯物を入れたかごを抱えて洗面所に入って来た、まさかの母の反対だった。
                ◇
次の日曜日。朝食を済ませた和彦はリビングのソファーに顔をうずめて泣いていた。
「和ちゃん、いくら泣いたってだめなものはだめよ。生き物を飼うって並大抵なことじゃないのよ。チョコレートみたいにコンビニで、はいよってわけにはいかないの。雨風や雪の日でも朝晩、散歩させなきゃいけないし病気にもなるわ。どうせお母さんが面倒見るはめになるのは目に見えてるのよ。それに庭で犬が吠えたら、ご近所の迷惑になるわ」
 公子は雪男が犬の話を持ち出してから一週間言い続けたセリフを今日も繰り返した。
「僕、庭でなんか飼わないもん。部屋の中で飼うんだー。ずっとワンコと一緒にいるよ。そしたら友達いなくても寂しくないから」
「えっ」
 公子は「友達いなくても寂しくない」と言った言葉に胸を突かれた。和彦が小学校に上がってから友達を家に連れてきたのは片手で数えるほどしかなかった。
「和ちゃん、犬を飼うより友達をもっと増やす方が先じゃないの。団地に同級生がたくさんいるじゃない。遊んだりけんかしたり、笑ったり泣いたり。友達ってほんとにいいもんだよ」
 和彦はそう言われても、いまだに友達の味を知らなかった。地区のスポーツ活動には参加してないし、公子に習い事に行くよう勧められても一向に動こうとはしなかった。運動音痴の上、体が小さく身長は同級生の耳のあたりまでしかない。自然と同級生との接触を避けるようになっていた。
「僕、絶対、犬飼うからね。お昼からお父さんとペットショップに行く約束してるんだ」
「まあ、お父さんったら。そんな話は全然聞いてないわ」
 公子は驚いて見せたが、内心は和彦と雪男が示し合わせて行動することに新鮮な喜びを感じた。
「あーあっと。やっと終わったー」
 朝食もとらず夫婦の部屋にこもって車の見積書を作っていた雪男が、大きく伸びをしながらリビングに入って来た。
「お父さん、お昼からペットショップに行くんだよね。今、お母さんに話したところだったんだ」
「えっ」
 雪男は公子の顔をちらりと見た。公子にはペットショプに行く直前に報告し、強行突破をもくろんでいたのだ。「カズに口止めしておけばよかった」雪男は一つため息をして和彦の隣に腰を下ろした。
「あなたっ!」
意外にも公子の目は笑っていた。雪男も和彦もOKのサインが出たと思い、にっこり顔を見合わせた。

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