福岡在住の心理カウンセラー23年の薬剤師経験(現職)を基礎に心が軽くなり豊かに生きることを考えるブログ
久しぶりの投稿です。嫌なことがあれば落ち込みます。うれしいことがあれば喜びます。うれしいことばかりだといいのですがそうはいきません。嫌なことがあって泣いたり嘆いたり不安になったりするのは当たり前ですがそこでそんなときこそ笑っていられないだろうかといつも思うのです。思うだけで実行できません。正確に言うと僕の場合車の中で無理に「はははー」と声に出して笑ってみるのですがその時だけは少し楽になりますがすぐにどよーんとしてしまいます。嫌なことをいつまでも引きずることってないですか?泣いても笑っても同じことなのにですね。だったら笑ってたらいいのにですね。なかなか笑えません。せめて泣いたり嘆いたり不安になったりしている自分を認めるくらいしかできませんね。泣いてもいいんだよと。せめて嫌なことがあっても好きなことをしたり考えたりする勇気だけはあればいいのにですね。なにもかも手につかなくなってしまうんじゃなくていつか笑える日が来るのを信じて楽しいことを考えるための少しの力がほしいな。
久しぶりの投稿。もう絶版になっている本だけど嫁がネットで取り寄せてくれた。夫婦ふたりだけでマンションを建ててしまった実話。マンションだけでなく様々な建売の家を建て生きてきた夫婦のドキュメント。僕などははなからこの夫婦のような根性のある生き方は無理だなと匙を投げている。お金などなくてもいかようにも生きて行けるとその生き方を通して示してくれている。世間に流されない本当に自由な生き方をされた夫婦だと思う。なんと僕は恥ずかしい生き方をしてるんだろうと情けなくもなる。ちょとした店の売り上げの低下に恐れおののき患者さんのために働きたいと思っていた初心はどこへやら。お金に振り回される生き方を選んでしまった僕はもう一度自分の人生を考えなおす必要がある。
なにか入ってきたらなにかが出ていく。以前「やりたいことをやる!を体験中」という記事を投稿しました。若い頃からの夢だった総合格闘技の道場に通っています。2ヶ月経ちました。若い子らに首を絞められうでをキメられながらもおじさんはまだ頑張っています。プロテインも飲んでますがもうおじさんになって消化能力が減退したのか翌日、下痢をします。それでももう歳だからとか怪我したらどうしようとか仕事に差し支えたらとかそんなのを捨てて格闘技を始めて良かったです。で自分の中に新しいものが入ってきたらやはり出ていくものもあります。格闘技に夢中になりささやかなブログを書く趣味が押し出されそうです。ブログを書く暇があれば格闘技の動画を観ています。今後は今日みたいに気が向いたときに書きますね。入ってきたら出ていくものがあるということは逆に捨てたら入ってくるものがあるのかもしれませんね。自分には必要のない様々な物や事思い切って捨ててみればきっとなにか新しいもの必要な物や事が入ってくるのでしょう。
親の心子知らずとはよく言ったもので子育てでの親の苦衷や葛藤はなかなか子供には伝わらないもの。写真が横になってしまいましたが今回は、門井慶喜の「銀河鉄道の父」を読んだ。さすがは直木賞と言いたくなる小説で素晴らしかった。揺れ動く「父」の心情がわかりやすく楽しく描かれている。本の帯に「天才の父は大変だ!」と書かれてあったがまさにその通り!宮沢賢治の父親のが主人公。子らの道しるべとなるよう厳格な父親であろうとするが息子を溺愛するあまり大甘になってしまうあたりが面白い。右にぶつかり左にぶつかり子育てはまっすぐには進まないがそれでも子供は成長していく。親の希望どおりには子供は進まない。むしろ親の生きられなかったもう一つの人生を歩むことの方が多いのかもしれない。だからこそ親は子供の進路を受け入れ難い。子供が親の知らない道に進むことは親にとってみれば自分のこと以上に怖いことかもしれない。
今回は、映画化もされた「そして父になる」を読んだ。出生後に取り間違えが起こり6歳まで他人の子を育てた2組の家族の物語。主人公は42歳の良多。一流企業に勤め、何事も自分の理想通りに人生を歩んでいる。性格的には、合理的で怜悧な部分を多く持っている。この物語はいささか使い古された言葉で言うと主人公、良多の自己実現の物語と言える。現実の世界で成功したように見える良多でも息子を取り違えられたことで自分の価値感を根底から覆さなければならなくなる。そのあたりがこの物語の核心かなと思う。今まで培ってきた価値を転換することは誰しも簡単なことではない。6歳まで育てた息子を手離して自分の価値感には合わない子供を実の息子だと押し付けられるくらい価値の転換は理不尽なものだとこの物語は教えてくれているのかもしれない。血の繋がらない息子を手離す苦しみと血の繋がった実の息子と暮らす苛立ちの中で良多の抑圧されていたものが心の奥底で動き出す。忘れさられていたもう一つの側面がじわじわとと浮き上がりより魅力的な人間へと良多を導いてくれる。こういうのは頭で考えてできるものじゃなく無我夢中に問題に取り組む中で自然と自分のものにできる。この物語の中だと昔、良多が好きで大事にしていたが今は、手にも触れないギターがなぜか部屋の中央に置かれていたり、物語の後半で良多が思わずそのギターを手に取って行動する部分によく表現できている。生きていく上で「遊び」の部分を捨てていた良多が二人の「息子」と取り組む内に自然と「遊び」の部分を取り戻していく。読んでいて悲しくて切なくて胸が締め付けらることもあるが自己を実現することをわかりやすく描かれていて示唆深い物語だった。
時間がないとかお金がかかるとかもう歳だしとかなんの得にもならないとか怪我するかもしれないとか仕事に支障がでるとかそんなこと関係なしにやりたいことをやろう!と思い総合格闘技(MMAって言います)の道場に通っています。ブログでは格闘技の「か」の字も書いたことはありませんが昔から好きなんです。見るよりやるほうが・・・。でもここ10年くらいなんのトレーニングもしませんでした。この真ん中のサンドバック硬いのなんの。手足がしびれます。それでやりたいことをやってどうかって?そりゃあもう筋肉痛ですよ。練習した翌朝寝返りが打てないくらいに筋肉痛です。あとは週に1回か2回しか練習には行けませんがワクワクします。このワクワクが僕にとっては大きいのです。本職の薬の勉強はしないくせにブラジリアン柔術の技術は目を皿のようにして先生の見本をみています。年間の会費を一括でポンと出してくれた嫁にも感謝です。まだ小さい娘がいるのに夜、練習に送り出してくれます。「みつがボコボコにされるとこ 見てみたいわ~」とドSな発言もしていましたが・・・。もう歳だし怪我をしたらどうしよう仕事に穴をあけたらいけないとやりたくないことを重要視してやりたいことを軽視してました。やりたいことをやらずに一生を終えるとこでした。あぶねー!思い切って捨てた物事はワクワクするという別の形ですぐに還ってきました。45歳からの挑戦です。
「天の花」とは夜空に輝く星のことで「地の星」とは昼間に咲く花々のこと。ふたつはお互いに微笑み合うことはできても手を取り合うことはできない。今回は、伊吹有喜の「なでしこ物語 天の花」を読んだ。本作では母に捨てられた主人公の耀子は18歳となり進路に悩む年頃になる。子供のころ幼馴染の立海が「僕がこの地に帰ってくるまで待っててね」と言った約束を果たせないことがはっきりとわかってくる。親の価値基準を押し付けられて自分の希望どおりには進んでいけない子供たちがなんとも切ない。親は子供のことを思って口だしをするのだけどそれが本当に子供の将来にとってよいことなのかはわからない。親が確信を持てずに子供の進路を提案する場合と確信を持って提案し決定する場合がある。圧倒的に後者のほうが子供にとってみればうっとおしい。だけど親は自分の経験や世間の常識から子供の進むべき道が見えている。確信があるので子供の希望がそれはそれは幼稚であぶなかっしいものに見えてしまう。でもその親の確信もあやふやなものである。なにが良くてなにが悪いかなんてすぐには判断できない。頭の固い親の価値基準をぶっこわして自分の進路を勝ち取ることも意味がある。親の言いなりでも水を得た魚のようにスイスイと世の中を泳ぐ者もいる。なにが良いかなにが悪いかなんて判断できない。だから今の状況に落ち込むことも腐ることも必要ない。たとえ思うようにならない現実があったとしてもきっと次なる一手が閃いて次なる一歩を踏み出せる。
生きていると様々な過ちや失敗をする。だけどその過ちや失敗がやがて思いもよらない豊かさを与えてくれることもある。今回は、宮本輝の「田園発 港行き自転車 上下巻」を読んだ。宮崎にゴルフに行くと言って出かけた父親がなぜか金沢のひなびた鉄道の駅で倒れ息を引き取った。15年後、37歳になったその娘は何かに押されるように父親の真実に近づいていく。金沢京都東京を舞台にした物語。金沢の漁村や田園風景を楽しむこともできるし京都の舞妓や芸妓の舞台裏を垣間見ることもできる。やがてそれぞれの地域に暮らすそれぞれの家族がひとりの少年を中心にして交流を深めていく。人と人とが交流を深めるとはこういう事なんだなと思わせられる。面白おかしく、おしゃべりすることが関係を深めるのではない。むしろ言わないことや聞きださないことを取捨選択することで人との関係は深まっていく。この小説の登場人物たちは失敗や挫折をしながらも自分が自由で豊かになれる場所がどこなのか見つけ出す物語になっている。それは自分の意志の力だけで見つけられるものではない。失意のなかで故郷に帰ったとしてもそこで思わぬ出会いに恵まれ自分の居場所を見つけることもできるのだ。なにか大いなるもののはからいで突き動かされたり流されたりしたところに「豊かさ」があるのかもしれない。人間の命の源人間のエネルギーの源泉は何を滋養とするのかおぼろげながら感じられる物語だった。
愛おしいと思える故郷の風景を心の奥に持てることは幸福なことだと思う。今回は、芥川賞を受賞した「おら おらで ひとり いぐも」を読んだ。75歳になろうとするひとりの女性の独白の形式で物語は進む。ほとんどが東北弁で話が進むので読みづらかったけど素晴らしい小説だった。その女性の生い立ち両親との関係家出伴侶との出会い子供との関係などを反省したり後悔したり納得したりしながら独白は続いていく。世の中に心理学の本はたくさんあるけどこの本は人間の心の成長を具体的に表現した心理学書だと思う。極めて個人的な物語だけど普遍的なものにつながる要素が含まれているように思う。誰しもがこの小説の中の主人公に共感したり共鳴したりするのではないか。主人公の女性の人生の前半は親から離れて暮らすこと働き口を見つけて自活すること結婚すること子供を育てることが中心となる。いわば「自我」の強化と成長のために人生の前半は費やされる。そして後半は伴侶がなくなり子供たちとも離れて暮らしひとりで暮らすことになる。寂しいと感じることを心の奥に押しやってはいても何かの拍子に溢れ出てきてしまう。さあこれからどう生きていけばいいんだろう?と若い頃とは違った悩みや問いが生まれる。人生の後半にも悩みが尽きない。この悩みや問題こそが人をより高次の次元へと連れて行ってくれるものとなる。自分はひとりだけどひとりではない。よく考えてみると自分は自由なんだということが頭ではなくて心の底から湧き上がってくるものとして感得できる。そういうことをこの小説は教えてくれる。主人公の女性の人生の前半も後半も悩みや問題は尽きなくてその時々の感情に振り回される。それでもその女性のもう見ることもない故郷の美しい風景が激しく揺れ動く心を鎮める役割を果たす。
おわった‼️池波正太郎の「真田太平記」12巻を読み終えた。やっと終わったという気持ちもあるけど、ついに終わってしまったという気持ちのほうが強い。もっと真田家の物語を読み続けていたい。たくさんの人物がこの長い物語には登場する。なかでも滝川一益の孫で滝川三九郎という侍の生き方が僕には魅力的に感じた。流れるままに流されるままに生きてさりとて自分を捨てていない。物事や世間の常識にこだわらない。軽々と生きている。滝川三九郎は元々、恵まれた環境で生まれ落ちたわけではなく艱難辛苦 の境遇だった。それらのおかげかはたまた養育した人が素晴らしかったのか、飄々と空に浮かぶ雲のように悠々と生きている。流れに逆らわず生きているけど自分を捨てていない。矛盾しているようだけど当人の中では整合性がある。力を抜くところと入れるところその塩梅の上手な人が人生の達人だろう。
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」自分の命を犠牲にする覚悟があってこそ、初めて窮地を脱して物事を成就することができるということだそうで人間、一度や二度は生涯で本気を出すことも必要だろうと思う。なかなか本気だせない僕が言うのもなんだけど。今回も池波正太郎の「真田太平記11」を読んだ。徳川幕府が開かれて15年。徳川家と豊臣家が手切れとなり大坂冬の陣が勃発する。一応、和議にたどり着いたがそれは家康の策略で豊臣家を滅ぼすためのものだった。やがて大半の大名が予想したとおり半年後に大坂夏の陣が始まる。豊臣家の外交のまずさもあり当主の秀頼淀の君は自害に追い込まれる。大坂方についた真田幸村や配下の草の者もほとんどが討ち死にをする。この大坂夏の陣を小説ではあるが史実に基づいて描かれたものとして読んだ。真田幸村がここまで家康を追い込んだとは知らなかった。兵士の数の上でも戦略の上でも外交の上でも優っていた徳川軍を相手にまさに捨て身の戦術であった。この物語の主人公は真田幸村だが裏の主人公として向井佐平次という実在したかどうかわからない人物を描いている。幸村の身の回りの世話をする人物でその生涯を幸村のために使い果たした男である。もちろん幸村と共に死ぬことになるがこの男はそれを不幸とは思わない。むしろ幸せであり誉れだと感じている。戦場で死ぬことの不幸より不世出の武人真田幸村に仕えることができたこととささやかではあるが充実した一生を送れたことの幸福を覚えている。そんな人物を描いた作者の人生観や死生観をも感じられるのが本巻だった。
#オリンパスペン #植物 #職場の植物 職場にある植物の一部を撮りました。水やりタイヘンです。 大前 光徳さん(@mitsunori_oomae)がシェアした投稿 - Feb 15, 2018 at 8:48pm PST
限られた範囲不自由な中でもその人らしい個性を打ち出した生き様は美しい。今回も池波正太郎の「真田太平記10」を読んだ。やっと10巻。あと2巻で終わり。物語は関ヶ原の戦いが終わり十数年、いよいよ徳川家と豊臣家が手切れとなり大坂冬の陣に突入する。高野山のふもとの九度山に軟禁されていた真田幸村もそこを脱出し大坂城に入る。徳川に勝つために様々な献策をするがことごとく豊臣秀頼の母、淀の君や豊臣家の重臣、大野治長に反対される。そんな不自由な中でも大坂城の南面に小さな出城、「真田丸」を築く。一見、なんの変哲も無い小さな出城だけど戦闘が始まると徳川軍に甚大な被害を与えた。この戦闘が行われた直後から真田幸村と言う名前が一躍、ビッグネームとなる。この史実に基づいた物語は生きることに汲々とした男の物語ではない。生きるとか死ぬとか得なのか損なのかそんなことを超越して思うさま自分の「生きる」を全うしようとした人の物語である。この真田太平記の重厚な面白さは史実に基づいた表の世界と史実には残されていない裏の世界隠密諜報の世界を同時に描いていることだと思う。表の世界が静かな時でも裏では諜報合戦が激しく繰り広げられていることがある。この裏の世界の住人である隠密忍者草の者などと呼ばれる人たちとも濃密に関わりあったのが真田家の人たちである。表の世界、誰の目にも意識される世界に生きながら裏の世界、余人には意識されにくい世界とも繋がっている。このことは自分の意思で統制できるこころの「意識」と言われる領域はものすごく大事だけど統制できない「無意識」の世界にも心が開かれている人は安定した豊かな生き方をすることに似ている。数値化したり目に見えるものばかりを真実ととらえるのではなく直感的で衝動的で割りに合わなくてなんかわからんけどみたいな意識しにくい心の動きを取り入れて生きていくのも豊かである。
23年ほど前大学を卒業して初めて就職した会社がなかなか厳しい会社で社会と言うのは厳しいものだとつくづく思っていた。今で言うブラックな企業で当時はそんな言葉がなくしかも初めて就職したところがそうだから社会にでて正社員で働いている人は皆そうなのかと思っていた。そこの社長の理論としてはオレはお前たちを月給で雇っているだから、24時間のうちいつでも電話で呼び出していいんだと言うもの。世間知らずな僕はなんかおかしいなと思いながらもへーそうなんだと半ば納得してしまっていた。実際、先輩は夜中の12時に呼び出されたりしていた。次の日、朝から仕事なのに。幸い僕の場合は夜遊びがすぎて睡眠不足のくせに毎夜毎夜出かけていたので社長がいくら電話をかけてきても留守だった。(当時は携帯電話はない)すると社長に言わせるとあいつは毎夜毎夜出歩いてなにかに取り憑かれとる!と言うことになりなんかの指導をされたように思う。忘れたけど。幸い学生時代からバイトの経験もたくさんあっていろんな職場を見てきていたのでこれはなんかおかしいぞ‼️と10ヶ月ほどして気づき(遅い)12ヶ月目にやっと社長の愛人かもと噂されるナンバー2に盾突き取り上げられていた薬剤師免許証も奪い返しまんまと逃げ出すことに成功した。その次に就職した会社は普通だったので天国かと思った。めでたしメデタシである。前置きが長くなったけど今回は城山三郎の「硫黄島に死す」を読んだ。7編からなる短編集。第二次世界大戦前後の時代を生きた人たち主に軍人たちを描いた物語である。当時の軍隊は今とは比べ物にならないほどブラックだったんだろうなと思う。とくに少年のころから理不尽な教育や意味のない精神論を刷り込まれると自分がやられたことはやられた通り下に返していくという卑怯な人間を作り上げることになる。意味のない制裁や暴力の連鎖。当時ほどひどくはないけどいまでもどこかで意味のない苦行をしている人たちがいるんだろうな。さっさと逃げ出してね。7つの短編のなかに「基地はるかなり」と言う作品がある。とくにこれが良かった。特攻から生き残った2人のその後の物語。2人の対照的な人生を描いている。「生きる」ことをいかに捉えるかでこうも人生が変わってくるのかと思わせられる。悲しくて苦しい物語で救いがないようにも思ったけどなぜかすごく惹かれる物語だった。生きることに過剰な期待をもつことはほどほどにしないと、と思っているけれど反対に生きていること生き残っていることを過剰に否定的に捉えることも慎まなければならない。
僕たちは自分の生きている時代の感覚や価値や常識や習慣や伝統に好むと好まざるに関わらず縛られて生きている。後の時代に生きる者からすれば笑ってしまうような価値でも大真面目にそれを信じている。今回も池波正太郎の「真田太平記9」を読んだ。関ヶ原の戦いが終わり真田昌幸真田幸村の本家が取り潰され十余年。真田信之の分家は上州沼田の大名として徳川家に臣従している。家康も70歳を超えて徳川家をより盤石なものにしようと策を弄する。後世の者からすると家康も焦ったんだなと思ってしまうような言動をする。その時代に生きなかった後世の者が家康の言動の是非を云々する資格はないが。。。いづれにせよ徳川家、豊臣家東西の手切れの時が迫っている。そこに真田信之と真田幸村の兄弟がどう関わっていくのかと言うのが今巻の物語。豊臣秀吉の息子秀頼が立派に成長して英邁の質を醸し出していなければ家康は豊臣家を恐れなかったかもしれない。秀頼の母淀の君に時代の流れを受け入れる力があれば母子ともに死ななくてよかったかもしれない。「もし」を言ってもせんないことだけど。。。流れに逆らわない生き方。これが最強だと思う。流れに逆らわなかったからこそ家康は天下人となった。妻と長男を殺さなければならないような信じ難いような厳しい「流れ」にも逆らわなかった。主体性を持ちながらも流れに逆らわずに生きて生き抜いた家康。だけど今から起ころうとしている豊臣家との戦いには自力で流れを作り生涯で貯め込んだ力を爆発させるように時代の扉を押し広げようとしている。
お気に入りの写真を投稿します。まず「あまおう」福岡では普通にスーパーに売ってますが他県ではとうでしょうか?これ食べたら他のイチゴは食べられません。次にクリスマスローズ。いかにも、今年も咲きました!みたいに写真を撮ってますが初めて買って、すぐに植えただけです。同じく買ってきてすぐに地植えしたビオラ。このリースバスケットの寄せ植えは自分で作りましたよ。いかがでしょうか?次は最近、D IYにはまってましてこの和室の白い壁を憧れの左官屋さんのまねごとをしてヨモギ色の珪藻土の壁を塗りました。珪藻土は調湿性能にすぐれて空気をキレイにしてくれるそうです。ですが塗りたてはなんかへんな匂いがします。シンナーのような有毒物質は使ってないと書いてましたが娘が頭痛いと言い出し極寒の中窓全開にしてしばらく過ごしました。いつもはママと2人で寝るんですけどまだ頭痛いと言い張るので昨夜は匂いのしない僕の部屋のベッドで眠ることになりました。窮屈でした。
生きているだけでそこにいるだけでいいのにひとは自分の人生に意味を持たせようとする。かく言う僕もそうだけど。今回は井上靖の「猟銃・闘牛」を読んだ。写真が横向きになってしまった。猟銃闘牛比良のシャクナゲの三編からなる短編集。とくに猟銃は著者の処女作。巻末の最後に解説の人が書いていたが小説としてはまだ荒削りだが面白い、と。僕には荒削りな部分はわからないが面白いことは確かにそう思う。ググっと物語に引き込まれるのを読んでいて感じた。三編の物語に共通なことは主人公の3人は自分が生きたいように生きたのに孤独を抱えている。生きたいように生きたゆえに孤独を抱えるようになってしまったと言うほうが良いかもしれない。自分の人生を実のあるものにしようとするのは良いが自分の思いばかりを先行させる生き方は周囲との精神的な隔絶が起こる。男性に多いように思う。長年、それが続きふと周りを見渡してみると虚無的な風景が広がっている。そこでハタと立ち止まり自分の生き方を見直す力のある人はいいけどもそうならない人もいる。男性に多いように思う。客観的にはそれを孤独と言うが本人は孤独とは思っていないケースも多い。ますます周りの者はバカだと排他的になる。自分が孤独なことを認めることは恐怖だから。その恐怖は絶望感につながることを無意識はわかっているから。周りに気遣い息をひそめるように生きるのも辛いことだが自分ひとりだけを実のある人生にしようともがくのも考えものである。周りの人と協調しましょうと薄っぺらいことを言いたいのではない。自分だけの一回こっきりの人生を本当の本当の本当に実のあるものにすることは自分を捨てて時間の無駄遣いだと思えるような時を過ごす必要もあると言う矛盾を生きることだろう。
このままではいけない。なにかしなくてはならないなにか行動を起こさなければならないと焦っても動きが取れない時期もある。今回も池波正太郎の「真田太平記8」を読んだ。関ヶ原の戦いが終わり西軍に味方した真田昌幸(父)と真田幸村(次男)はその責めを負い紀州は高野山のふもとにある九度山と言う村に軟禁状態になる。父親の昌幸は徳川家が天下を取ってもまだひと戦もふた戦もあると踏んでいた。恭順を装いながらも時がくれば必ず家康を打とうと思い定めていた。ただ10年という歳月は昌幸を衰えさせついに待ち望んだ時はやってこなかった。ひとくちに10年と言っても当人たちにすれば長かったのではないだろうか。10年を費やしても行動できないこともある。反対に一瞬で世界が変わってしまうような行動を起こすこともある。未来のことは一寸先のことすらわからない。このごく当たり前のことを僕などももっとよく噛みしめるべきだと思う。わからないからこそ面白いしわからなくても大丈夫だしつまりなにがどうなっても大丈夫なんだと言う大安心が未来はわからないと言うことの中に詰まっているように思う。
最近は読書感想ばかりブログに書いてるのでたまには撮りためた写真を少しだけアップします。主に寄せ植えです。上の二つは昨年の晩秋に作りました。これも昨年の晩秋に咲いた椿ではなくて山茶花(サザンカ)です。次の寄せ植えは先程のものを年末にリメイクしたものです。
西暦1600年関ヶ原の戦いで良くも悪くも活躍した武将を観ていると自分はどのタイプの人物なのかと考えてみたくなる。もちろん僕は深慮、遠望の徳川家康でもなく怜悧だけど戦下手な石田三成でもなく直情型だけど戦上手な福島正則でもないしどのタイプの人物に当てはまるかわからない。天下分け目の戦いになすすべもなく自分を見失い逃げ惑う名もなき者だろう。今回は真田太平記8を読んだ。関ヶ原の戦いが始まろうとする頃から終わるまでのそれぞれの武将の心理的な葛藤を含んだ言動が詳しく描かれている。真田昌幸(父親)真田幸村(次男)のように物事を好き嫌いで判断して自分を活かそうとするタイプ。真田信幸(長男)のように長いものに巻かれ自分を殺しているように見えながらその実自分も周りも活かそうとするタイプ。さだめに逆らいまくる生き方とさだめを受け入れる生き方どちらもありである。どちらも事にあたって精一杯自分を輝かせた美しい生き方である。なればこそこの親子の歴史物語に後世の者が惹かれるのだろう。