ブラックモンブランとは何者か | ずるずると道・郷・話を愛でる

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房総半島から栃木県北部を中心として、
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何事かと思った。

その名称を聞いた時には。すごい色のモンブランというケーキを思い描いたのであるが、それを紹介した九州出身の人は、

 

なんか、こう黒いやつです。アイスです、アイス。

 

なんだろう。モンブランと聞いてケーキのイメージが付いてしまった当方は、モンブランにチョココーティングされる姿を想像して、ますます混乱してしまった。

 

なんか、60円ぐらいの…

 

つづけて出てきた言葉にさらに混乱する。いったいモンブランにそんな安い要素があるのだろうか。。これまで考えてきたイメージが崩れるはずであるが、それに代わるイメージはない。

 

 

 

 

そう、ホシュがよく言う、「安倍以外にだれがいる?」状態である。想像もできないものにはひどく不安を覚え、ついついその思いを逆切れという形で表現したくなるものなのだ。

 

結局その像は、モンブランケーキの全体をチョココーティングしただけという、ありえない形で止まってしまった。それでも60円という価格設定には、整合性が取れないままもやもやしていたのである。

そして、今、この記事を執筆中にその正体を見出した。

 

竹下製菓の、ブラックモンブラン

ブラックモンブランを知らなければ、「ちょびり」大人なブラックモンブランもなんのこっちゃわからない。

 

正確にはそういう代物だった。アイスバーだったのである。しかも、その姿は、よく見かけるセンタンアイスのチョコバリ風の様相を呈している。ただ、若干厚みがあるように見える。

東京でも買える!ということも通知されていた。おそらくこのネタを振ってきた人はこの状況に触れる機会があったのである。しかも、その後に衝撃的な告白をしたのである。

 

買ったの?

 

いや、買ってません。見て、懐かしいなぁと思っただけです。それだけで満足でした。対して好きでもないので。。

 

買ってないんかいっ。

この、語尾の「かいっ」がリフレインする感じが頭に広がっていく幻聴を感じた。それほどこの突込みは突っ込むべき突っ込みであったのである。

 

そんな面白展開をした会話で返ってその商品に対して興味がわいて、その会話の数時間後にわざわざ画像検索してその商品の姿を確認した次第であった。

 

しかし、わからないものを想像することの難しさを知るいい機会にもなった。

XXXはYYYに違いない(モンブランはケーキに違いない)という思い込みから脱しない限り、このブラックモンブランの姿を想像することすらできないというものである。

 

少し大げさに言えば、情報を触れる機会がないと、それがどんなに有用な概念であったとしても、うまく取り込めない、ということを示唆しているともいえるだろう。

 

イデオロギー化した考え方では、その呪縛から逃れることは難しいのである。

 

それは、例え、論理的にものが考えられる人でも、いや論理的にものが考えられがゆえに、間違った種から広げて、満足している世界観をひっくり返すことになるので、否定することが相当怖いのであろう。怖いがゆえに味方を探したくなるのである。

 

逆に、浅い部分だけにしか触れていない場合には、そこから抜け出すのは比較的容易である。別の価値基準を持っているだろうし、その価値基準に合致していないことが分かれば、その話をひっくり返してしまえばいいのだ。論理的に緻密に作りあげられている足元が心もとなく、間違った価値基準(自由は何よりもまさる優先事項である。言い換えれば、自由は自由だからいいんです、である。)の上に組み立てられている緻密で頑丈そうな理論は、足元を蹴飛ばしてしまえば、ガラガラと崩れていくのである。それが怖いがゆえに、足元の確認をするどころか、一生懸命に詭弁を弄して隠そうとする。逆切れする。そして、トートロジー(AならばAというような命題Aが真かどうかにかかわらず成り立つ論理。自由は自由だからいいんです、などのようなこと。何も言っていないのと同じである。)を強弁するでねじ伏せようとする。

 

残念ながら、論理の核(公理)になること自体は検証できないことであり、習慣や経験や、歴史で蓄積されてきたものから正しいかどうかを推し量るしかないのである。

 

そうやって初めて、本当のビッグモンブランが目の前に現れてくる、というものである。

 

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君の名は28回目の鑑賞をしてきた(2017/3/23)。もう、前の2列目ぐらいの位置で見上げながら鑑賞するスタイルが板についてきた感もある。場所は、川崎、配給元でもある東宝の映画館である。これだけ上映回数が減らされた中で18:50開始というのは、なかなか貴重な会社帰りにも見る可能性を感じられるものがある。

 

場所は、京急川崎に近いところに新築されたテナントビルDiceの6階7階にある。ここのビルも5階6階に飲食店が充実しており、いわゆるチケ割と呼ばれる映画の入場半券を提示すると割引などが受けられる。しかし、入場前はたいてい時間の余裕がなくこの恩恵に預かれることは少ない。よって、必然的に鑑賞後の利用となるが、平日はたいていレイトショーであり、見た後は、あらゆる店舗が閉店していることも多く、これまた恩恵にあずかれないのである。その点時間が早めの今回の鑑賞は、奇跡的に恩恵にあずかることができる貴重な機会となった。

 

ショッピング シネマ レストランなら川崎DICE(ダイス)

JR川崎よりは京急川崎に近い位置にあるこのビルは、ダイスという名前である。ダイスとはさいころのことであり、見た目がさいころのイメージで作ってあるのだろうか。あるいは、川崎大師のじゃダジャレで名付けたのか。ここに東宝シネマズ川崎が入っている。

 

その前にもちろん鑑賞である。

 

最近の予告編の特徴として、上映中の作品の宣伝を行うということがあるように思う。昨年まではそんなことはなかったのであるが、今年に入ってからのやり方なのだろうか。残念ながらそのようなことをされても見に行く気持ちまでに立ち上がるころには、ほどんどその映画館での上映が終わってしまうこととなってしまうだろう。映画を見始めるというのはよっぽどの共感を持たない限り、やらないことなのである。逆に今回の映画はそんな共感を自家発電してしまうぐらいに気に入ってしまった特異な作品ともいえよう。

 

映画鑑賞でモードを変えるのは、やはり次の映像が流れた時であろう。

 

 

最近見かけるのは上記の最後のパターンである。ポップコーンやジュースの頭部をもったお客のバージョンである。ちなみにポップコーンの人は、頭に盛り付けているポップコーンを一粒とって、食べるしぐさをするのであるが、口がないため、食べることができない。あと何か興奮することがあったら、ポップコーンが飛び跳ねるのである。それに比べて隣のジュースの人の反応は乏しい。ストローは伸ばしても口のある場所に伸ばせるわけでもないので、飲めないし、興奮したらストローからジュースが噴出してもあと始末に困るのか、何も出てこないのである。ジュース氏の方もどうにかしてほしいと思う今日この頃である。

 

この映像が流れるとたいてい本編である。一部の映画館ではちょっとだけ映画館のタイトルが入る場合があるが、ふつうは、本編に入る。本編の前には、配給会社、制作会社のロゴの動画が挟まってくる。この映画では、ロゴが消えて真っ暗になったところから、滑空音が入ってくる。暗転での音だけの演出は、想像力を掻き立て、感情を先行させる役割を果たしているように思う。特に数回以上見た場合は、その後の展開を思い起こさせ、すでに感情が高ぶることも多いのである。

 

 

6年後の、すれ違いの日々の一コマ。

三葉は、朝起きると、涙を浮かべていた。

瀧は、朝起きると何か足らない気持ちが残る。

冒頭は、並走する通勤列車で、隣の列車をお互いに見ているようなイメージでプロローグが終わるのであるが、それも、何かを探しているようなそんな眺め方なのである。

 

その何かを探している様子は、一つの美しい天体ショーから始まったことだけは覚えているのである。それが何をもたらしたのか。大きな災害だということだけは覚えていても、それから、なにかギリギリのところで逃れたのか、ただただ、美しいものとして遠くで見ていたのか、というそれぞれの見え方は違っていても、その出来事は、心に突き刺すものがあった。ただ、そういう社会的な大きな影響というだけでなく、何か足らない気持ちも残っている。

 

こんな情景が何度も見ていると揺り起こされてくるのである。さすがに所見や2回目ぐらいではそこまでは出てこないのであるが、何度も見たことで、物語前部に対して揺り起こしてくるリンクポインタを頭の中で張り巡らせているとでもいえばいいのか。

 

OP(オープニング)のテンポの良い映像でも、物語のキーとなる構造が2回目以降はわかるものであるが、すでに、それすら見るまでもなく、プロローグの状態で完成させてしまっているのかもしれない。

 

命、一生とか歌詞は、男女の出会い程度に対して相当に「大げさ」な感じは受ける。

ただし、出会いから膨らむ残りの一生涯の起伏を考えれば、その大げささは無下にもできないぐらいのものである。もちろん、それが貫徹できずに途中で離脱することもありうるだろうが、それすら、離脱したことを後悔してしまうぐらいに、その「大げさ」さを再認識させるだけの心への染み入り具合をこの映画は持っていると思ってしまうのである。

 

表層的な物語だけでなく、この、自己陶酔、自閉的なパラダイス、悪い言い方をするとそんな感じではあるが、映画をエンタテイメントととらえれば、これほど出来の良いエンタテイメントはないのではないだろうか。映画をうまくいけば自分の感情の起伏を連動させることができ、それを一度できてしまえば、減速する機会もなく加速して、空のかなたにとんでいく感覚があるのだ。

 

扉が迫ってくる演出や、空を画面の1/3から1/2以上に見せる映像は、そこに気持ちを寄せる場所を用意しているようにも見える。人物アップも必要に応じてあるが、全体として、景色の中で動いている、存在しているような構図が圧倒的なのである。そこにある景色は、いつも見ているが、時間に応じて天候に応じて季節に応じて、見せる姿に違いがある。

 

カタワレ時と劇中で呼ばれるたそがれ時も、その言葉から連想される、単なる発色が抑えられてモノクロに変わろうというそんな薄暗い時、というよりは、明るい時よりも、暗いというよりは、気持ちが高まる薄暗さという、新しいたそがれのイメージを吹き込んでくれた。

 

クレータ山上の3年間のずれと、黄泉がえりの出会いでの、たわいのないじゃれあいのやり取りは、日常が非日常の中で繰り広げられてその貴重さを感じるという、日々の日常を作ることの大変さを表しているようなシーンに思える。そのときは、当たり前のようにある生活も、うっかりするとなくなってしまいかねない、という諸行無常な感覚である。

 

 

今の日本の状況は全体がそういう状況になっているのではないかと思いいたるのである。

これまで紡いできた日常は、日常であるがゆえに続いていくと思っていたが、日常の顔をした日常をニコニコしながら破壊する連中が、それを止められない空気を伴って押し寄せてきているのである。日常で楽しめてきた食文化、リクリエーションなどは、移民の浸透や、雇用の不安定さで、常態として存在させることが実は難しい状況であり、関心をもってその問題を意識して、対処していかないといけないことを思い出せるのである。