保守とは、経路を尊重する態度 | ずるずると道・郷・話を愛でる

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房総半島から栃木県北部を中心として、
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光量か少ないと絵がもやもやする。

 

経路依存性、この言葉はこの界隈では一種の流行語としてよく用いられているように思う。

かく言う当方も事あるごとにこの言葉が浮かんできて、ついつい口にしてしまうものであるが、少し罠があった。

 

「経路依存」の主語は何か「ダンシングライター」

 

で示されたように、本来的なこの言葉の意味は、経路(これまで辿ってきた歴史)に対する依存症のことではなく、物事は、経路によって制約されて決まるという、依存性、制約性のことであることを改めて解説していた。なんとなくの理解はあったのであるが、なんとなくが故にその言葉の持つ広がりによって使用する方法にずれが生じしてしまっていたことが否めない。上記の記事で引き合いに出されていたコメント記事からその勘違いについてわかり易い例で示されていたのは、考え方の整理に大いに役立った。

 

物事の決定の経路へ依存する性質というのは、言い換えれば、経路(歴史)の制約で物事を決めないとうまくいかないことを表す言葉であり、まさにそれは、保守の考え方そのものであったのだ。

 

経路依存性は、保守の考え方そのもの

 

改革にお熱なひとびとは、そういう当たり前の事実を忘れてしまって、それまでに作り上げられてきた仕組みを、大いに破壊して買えてしまうことが、そのものが良いことだとして、褒めそやし取り憑かれてしまうが、その内容がたとえ、良いものであったとしても、社会がその変化に上手く耐えられない、ということである。大きな歪は、社会の仕組みの正常な挙動を著しく制約してしまう。すなわち、仕組みが破綻して動かなくなってしまうのである。それでは、良いものを目指したとしてもそれが挙動することがほぼなくなってしまう。そこにあるのは、結局、力技という破壊的なやり方だけであり、うまくいかない。

 

移民を受け入れ続けて、その存在感を大きくしていけば、日本文化が破壊されていくことは明らかである。それを適切な割合にまで調整していくことは持続可能な日本社会づくりのため、正常な経済成長に必要な賃金低下の防止のために必要なことではあるが、移民をこれ程受け入れてしまったという経路に対して、そのことの運び方は制約せざるを得ない。それを少しずつ除去していくしか無いのである。

 

その変化の緩慢さに嫌気が差しそうなものであるが、それは、しっかりしたビジョンを示すことで、長期に渡って行う必要があるということである。経路に制約しながら物事を成功させるには、そういう地道な活動をしないといけない。

 

成果がすぐに出ることを期待してしまって、やることなすことを諦めてしまい、現政権のやっているような言い逃れを容認していては、それは、結局は悪い方向に経路を進めてくだけであり、ますます、時間のかかる補正に必要な行動に要する時間がかかる、ということである。替えること、あるいは、壊すことは感嘆であるが、壊さないように補正していくということは、実に気長似続けていかねばならないことなのであり、短期的なものではなく、長期的なビジョンを必要とする者なのだ。

 

なんか目立つことをぽいぽいやるようなやり方は、どちらにしても破壊的な結果になる、という教訓である。

 

そういう意味では、安倍政権のやっていることは、やっていることが破壊的な上に、経路を無視したフラフラした政策が多く、加速的な破壊力を持っているといえるだろう。それだけでも批判に値するものである。あらゆる決定について、その思想が入っているだけで、それを見逃す考え方は、実行可能な経世済民の政策の観点ではありえないのである。