「他人の不幸は蜜の味」という昔ながらの格言が科学的に証明されたそうです。

 

「他人の不幸は蜜の味」は科学的証明済み

 

この記事では、fMRI(機能的磁気画像共鳴法)という装置を使って脳の活動をモニタリングする実験により、自分よりも優れた能力を持つ人間や恵まれた環境にある人物を見た際に、嫉妬の感情が沸き起こり身体の痛みの処理に関係している脳の部位である前頭葉の前部帯状回の上の部分の領域の活動が活性化することが確認されたことが説明されており、「つまり、「妬みとは心が痛いことである」ということができるかと思います。」と結論しています。

 

さらに、次の実験では、自分より優れた能力を持ち、恵まれた環境にある人物が不幸に見舞われた際に人の脳がどのように反応するかについて観察しました。すると今度は、おいしい食べ物やお金を得たときに報酬に反応する報酬系という部位である脳の深い部分にある線条体という部分が活性化することが確認されました(ちなみに、大して嫉妬するような要素のない平凡な人物に対してはこのような報酬系の反応は発生しませんでした)。このような実験の結果から筆者は次のように結論しています。

 

妬ましい他人に不幸が起こった場合には、前部帯状回の心の痛みがやわらぎ、それと同時においしい食べ物やお金を得たときのように、無意識に自然と喜びが湧き上がってくるのです。これは、理性を司る部位よりもずっと深い部分にあり、無意識的に喜びが沸き上がるため理性による制御は難しいです。本能的な反応と言えます。


これで、宗教的・倫理的にどのような主張をしようが、「他人の不幸は蜜の味」というのは、自己欺瞞によって覆い隠しようがない厳然たる事実だということがはっきりしたのではないでしょうか。

 

また、この実験の中で興味深かったことの一つは、同じように自分より優れた能力を持ち恵まれた環境にある人物であっても自分と似たような趣味や価値観、自分と同じような人生目標を持っている人物にはより強く嫉妬の感情が引き起こされ、逆に、共通の趣味や価値観、あるいは同じような人生目標を持たない人物に対する嫉妬は前者に対する嫉妬の感情程強くは引き起こされないということです。

 

なんとなく、この話を読んで思ったことが、自分自身の価値基準、価値規範が確立されておらず、他人の興味や価値観に振り回されやすい人間ほど嫉妬深く感情的に傷つけられやすく、また他人の幸福を素直に喜べない嫌な性格の人物になるのではないか?ということです。

 

この記事では、「宗教的・倫理的にどのような主張をしようが、「他人の不幸は蜜の味」というのは、自己欺瞞によって覆い隠しようがない厳然たる事実だ」などと説明されていますが、よくよく考えてみればこれもおかしな話で、普通に考えて別に他人が不幸になろうが幸福になろうが、本来的には自分自身の幸福感とは何の関係もないハズです。にも関わらず、実際には多くの人が他人が自分より優秀か無能か?あるいは幸福か不幸か?なんてことを四六時中考えて生きてしまう。

 

もちろん、この実験で示されているように、ある程度はそれは自然な生理的反応なのであって仕方のないことなのでしょう。しかし、もう他方で記事中に示されているように他人と似たような価値観を持っている人ほど嫉妬の感情に苦しめられたリ、他人の不幸を喜んでしまったりという傾向が強まってしまう。現実には、多くの人びとが自分自身の確たる価値観の軸や人生哲学を構築しないままに他人や世間の陳腐な価値観に振り回されてしまうワケですが、おそらくは他人にいとも簡単に影響されてしまうこのようなこうした生き方を改めない限り、このような人物はどこまで行っても、つまりどれだけ出世しても金を稼いでも、もっと偉い人間、もっと金を稼いだ人間に嫉妬に苦しめられ続け、また一方で自分よりも社会的地位の低い人間、自分よりも金のない人間を見下して生きることになるでしょう。

 

また、この記事では、人びとは他人への嫉妬の感情からくる心の痛みを和らげるために衒示的消費(誇示的消費、みせびらかしの消費)に走ることが多い、と指摘していますが、そう考えると嫉妬の感情に振り回されないように世間や他人とは違う、自分自身の価値感を確立していくこと(要は哲学的問題について考えること)は一見何の実用的な効果もないように思えて、実は案外にプラグマティックな効用をもたらし得る行為なのかもしれません。

 

具体的には、むやみに他人に影響されることなく、感情的な安定と冷静な思考力を維持し、合理的な判断を下すために精神的な余裕を常に確保できるということです。まあ、現実にはどうしても哲学的な思想に傾倒していくと厭世的になったり、拝金主義を忌避する傾向が強くなると思うのですが、例えば非常に優れた経営者やビジネスマンなどは、他人や世間の価値観に振りまわれないだけの精神的な独立性を確保しつつ、経済的な成功を収めるという目標にコミットし続けるというバランス感覚を持ち続けているのでしょう(スティーブジョブズ、松下幸之助、出光佐三etc…)。このようなバランス感覚の一つの頂点が出光佐三であると思うのですが、出光の側近であった石田正實は出光の葬式で、安らかに眠る出光佐三の横顔を見ながら、「この人は、生涯ただの一度も私に『金を儲けろ』とは言われなかった。40年を超える長い付き合いだったのに...」と呟いて落涙したというエピソードが残っています。

 

最後に、藤井聡さんの『大衆社会の処方箋』で書かれている「独立確保」という概念に関して少し解説して終わりにしたいと思います。この「独立確保」という概念はある意味で自分自身の価値感を形成するという問題と表裏となっていると思います。自分自身の価値感の軸がしっかり確立していればそれだけ周囲の価値観や信念に振り回されずに済み、逆に自分自身の価値感の軸が脆弱であれば、どれだけ他人に振り回されないようにと願っても、どうしても強く他者に影響されてしまいます。

 

こう考えると、哲学というのは、過度に空気や一時的な流行に流されやすい大衆社会化現象に対する処方箋としてのパブリックな役割があると同時に自分自身の精神的な安定や幸福感の確保を図るという個人的な利益にも適い得る、案外実用的な学問なのかもしれません。

 

 

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