島津義弘 https://ja.wikipedia.org

 

 

 奈良県桜井市の三輪山平等寺にこんな伝承が残っています。 

 

慶長5年(1600年)915日、関ケ原の戦いで敵中突破した島津義弘が平等寺に逃げ込み、1128日までの70日間滞在して薩摩に帰国した。

 

 

境内には奈良九州県人会の旗が立っていたりして、「400年前の恩義を忘れない九州の人は義理堅いなぁ」と思っていました。

 

 

ところが、先日、NHKの「歴史秘話ヒストリア」を見ていると、ぜんぜん違うことを言っていた。関ケ原から義弘は5日で堺に到着したというのです。70日間と5日間、ぜんぜん違う。どういうことなんだろう、と少し調べて見ました。

 

 

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関ヶ原合戦図屏風(六曲一隻) 関ケ原町歴史民族資料館。中央の上方に島津勢が描かれている https://ja.wikipedia.org

 

 

 

島津義弘は1500の兵を率いて関ケ原の西軍に参陣しました。小早川秀秋の裏切りにより西軍は総崩れになるのですが、島津軍は勇猛果敢に福島正則隊の正面を突いて関ケ原を脱出しました。最後方に捨て駒を置いて時間稼ぎをする「捨て奸(がまり)」という壮絶な戦法をとり、多くの戦死者を出しました。薩摩に無事帰れたのはわずか数十人といいます。

 

 

関ケ原から義弘はどのようなルートで退却したのか。これには諸説あるようです。

 

 

関ケ原→彦根→信楽→奈良市内→暗峠越えで大阪入り、というのが薩摩での有力な説です。奈良のかかわりでいえば信楽以降がポイントになりますが、この説では、桜井から遠く、奈良の北部を通っただけということになります。

 

 

「関ヶ原島津退き口: 敵中突破三〇〇里」を著した桐野作人氏は、島津家の家臣らの記録をもとに、義弘主従は、信楽から木津川沿いに下って笠置山から木津の渡しを経由して西進し、生駒山地を越えて飯盛山に達した、と述べています。関ケ原を脱出した4日後の19日には「和城(大和・山城)の国かきか越」を越し、その夜に「飯森の在所」に一宿した。桐野氏は「かきか越」は大阪府交野市の「峡崖越(かいがけ)」、「飯森」は大阪府大東市の「飯盛山」とみる。そして20日には堺に到着していた。

 

 

 また、島津軍のうち義弘をはぐれた家老・新納旅庵(にいろりょあん)ら300人について桐野氏は次のように書いています。

 

 

旅庵らは伊吹山の麓から北近江路を目指した。牧田川を遡って五僧峠(島津越)を経て近江高宮に出た。旅庵らは18日に入京し鞍馬に潜伏したが19日に徳川方に捕縛された。このとき多数が捕虜になった。11月、桜井の三輪山大先達(大神神社の修験者集団のリーダー)から銀子一貫文借りた借用書がある。署名したのは旅庵ら11人。その家来を含めると数十人が徳川方の人質となり、三輪が宿舎にあてられたのではないか。

 

 

義弘は桜井には来ず、平等寺は家臣らの捕虜収容所になったという見方です。薩摩勢が平等寺にお世話になったことに違いはありませんが、義弘自身は先に帰っていたわけです。

 

 

 

島津公の退却ルート(「関ヶ原島津退き口: 敵中突破三〇〇里」から。点線が通説。実線が桐野氏の考え)

 

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一方、NHKの「ヒストリア」は、義弘の退却を夫婦愛の美談として描いていました。大坂城に妻・宰相殿が人質に取られていた。家康の方が先に大坂城に入れば妻の命は危ない。一刻も早く救出しようと大坂へと急いだ。関ケ原から堺までは200㌔あるので、一日40㌔も歩いたことになります。疲れ切った落ち武者にとってはたやすいことではないでしょう。

 

 

妻を助けたい一心で、鎧を棄て、刀を売って先を急いだ。しかも、途中、落ち武者狩りにあった。4、500人に襲撃され、5人が殺されたといいます。堺では海運を通じて薩摩と取引があった塩屋孫右衛門に助けられ、薩摩への舟を用意してもらった。妻の救出に成功し、西宮沖で落ちあったのは9月22日。時間的には桐野氏の主張と一致しています。

 

 

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平等寺の境内

 

 

信楽→名張→笠間峠を越えて平等寺→竹内峠越えで堺

 

 

という説もあります。笠間峠は、奈良県宇陀市と三重県名張市の境にあります。竹之内峠は二上山の南にある峠です。日本最古の道、竹之内街道の難所です。

 

 

この説を唱えているのは、天理大教授を務めた平井良朋氏で、峠越えを導いたのは山伏だとみています。平井氏の論拠は、先にも触れた銀子一貫文の借用書と、義弘が帰国後に出した感状にある「伊賀」という文字です。「信楽→奈良北部説」が広まったのは、協力者が家康に処罰されるのを避けるためだったというのです。

 

 

島津家は修験道を信仰しており、平等寺に大峰山への代参を頼むこともありました。平等寺は江戸期の修理で島津家から多額の援助を受けています。薩摩の人は、江戸時代から一貫して恩に報いているわけです。主人を守ってもらったからこそ、これほどの報恩が続いたと見ることはできるでしょう。

 

 

 
 

 

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島津軍は関ケ原から散り散りになって故郷を目指し、各地で伝説を残しました。故郷で英雄となった家臣たちは、英雄譚の常として「話を盛る」。勘違いがあったかもしれません。こうして史実は見えにくくなったというのが実情のようです。それにしても、「平等寺70日間滞在」説は、将兵の「体験記」や「聞き書き」としては存在せず、少々分が悪いように思えました。

 

 

島津勢の退却ルートを辿るイベントが昭和35年から開かれていて50回を超えています。「祖先の武勇を忘れない」と鹿児島の小中学生ら参加します。なかなか楽しそうな催しですね。