↑「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを 覚えなさい。」ヨハネによる福音書15章18節
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日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
復活節第5主日 2024年4月28日(日)午後3時~3時50分
礼 拝 順 序
前 奏 辺見トモ子姉
司 会 邉見 順子姉
讃美歌(21) 402(いともとうとき)
交読詩篇 106:1-5(ハレルヤ)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書15章18-27節(新p.199)
説 教 「迫害の予告」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 343(聖霊よ、降りて)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
次週礼拝 5月12日(日)午後3時~3時50分
聖 書 ヨハネによる福音書7章32-39節
説教題 「キリストの昇天」
讃美歌(21) 338 27 交読詩篇 46
本日の聖書 ヨハネによる福音書15章18~27節
15:18「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。 19あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。20『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。 21しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。 22わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。 23わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。 24だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。 25しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。 26わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。 27あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。
本日の説教
ヨハネ福音書は、13章からイエスと弟子たちの最後の夕食を記しています。最初にイエスが弟子の足を洗う記事があります。イエスが弟子たちの足を洗ったように、弟子たちも互いに足を洗うように勧めます。その後、食事の席に着き、ユダの裏切りを予告します。ユダが出て行くと、「互いに愛し合いなさい」という新し掟を与えます。その後、ペトロの離反を予告します。
14章からは、イエスは父に至る道であることを話します。そして、聖霊を与える約束をします。
15章では、イエスはまことのぶどうの木であり、弟子たちはその枝であるという譬えの話しをし、イエスにつながっていれば、ゆたかに実を結ぶことを約束します。この翌日には十字架につけられるのです。そうした緊迫感が状況を支配しています。
13章から始まった「別れの言葉」は、今までイエスと弟子たちとの間に結ばれた愛の関係を中心とするものでしたが、今日の聖書の箇所、15章18節から、一転して、弟子たちがどのようにこの世から憎まれるかという迫害の予告に、主題が移っています。
イエスは、受難と十字架以後、弟子たちの上に予想される迫害に備えて、勧めを語ります。<世>(18節)は具体的にはユダヤ人社会を指すが、その世があなたがた(弟子達)を憎むなら、その憎しみは弟子達を憎む前に、イエスにも向けられたものであることを覚えなさい、と主は語ります。 あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは、世に属していない。わたし(イエス)があなたがたを世から選び出した。だから世はあなたがたを憎むのである、と主イエスは言います。
20節では、13章16節で主が言った「僕は主人ににまさりはしない」の言葉を思い出しなさい、と主は言います。人々がわたし(イエス)を迫害したのであれば、あなたがをも迫害するだろう。人々がわたしの言葉を守ったのであれば、、あなたがたの言葉をも守るだろう。
しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのこと(迫害)をみな、あなたがたにするようになる。それは、<わたしをお遣わしになった方(父なる神)を知らない>(21節)からである。)この言葉は、世の不信仰、ユダヤ人の不信仰の実態をついていると思われます。ユダヤ人は、神を知っていると自負しています。しかし、イエスを派遣した方が神であることを知ることを拒否するのです。そのことは、イエスにおいて現わされた神を知ろうとしないことであり、神を知らないことに等しいのです。
22-24節では、世またユダヤ人の罪の責任が問われています。イエスは公に、世とユダヤ人に神の言葉を語りました。その言葉を聞きながら受け入れないということによって、世は自分の罪について<弁解の余地が>(22節)ありません。わたし(イエス)を憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。
また、イエスは、神から派遣された者にしかできないような数々のしるし(奇跡)を行い、神の栄光を現わしたのにもかかわらず、イエスとイエスの父を憎んでいる(24節)。世の罪の責任は、免れ得ないのです。イエスの言葉と業は、イエスの神性を証明するものであり、世は、イエスと父の一体性を信じ、イエスを世の救い主と信じなければならないのです。しかし、結果は、イエスへの憎しみであり、そのことによって、父なる神を憎んでいることを暴露したのです。
そのこともまた、神の意志であることが、25節で明らかにされます。詩編35:19、69:5の「人々は理由もなく、わたしを憎んだ」の言葉を引用し、それは<彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである>と主は語られます。
26-27節には、憎しみに満ちたこの世に、イエスの愛の証人として立つ弟子たちの生き方とその課題が示されています。この世の人々を愛し、町々村々を巡り歩いて神の国の福音っを宣べ伝え、そのために十字架にかけられ、命をささげられたイエスの愛が示されています。復活されたイエスに出会った弟子たちは、世にありつつ世にならわず、世を離れず、世から選ばれた者として、イエスの愛を証しする者としての使命を命じられています。<わたしが・・・あなたがたに遣わそうとしている聖霊(弁護者・真理の霊)の証しに導かれて、弟子たちもまた愛を証しをする者となるのです。それが、異邦人の中にあってなすべき立派な行いであり、この世という同じ土俵の中で、この世の問題を担って共に生きるところに、世にあるキリスト者の姿があるのです。27節で、イエスが語っているように弟子たちの共同体も、証しの機能を担うのです。
神は本質的に愛であられます。イエスも、この愛をすべての人に与えるため、世に来て下さいました。だが、その愛を受け、その愛の中に生きようとするキリスト者の群れが、どうして世の人々から憎まれるのでしょう。善人は世の人から喜び迎えられるというのが、この世の常識であるのに、イエスはその正反対に、その憎しみの第一の理由は、イエスが弟子たちをこの世から選び出し、ご自分に属する者として、この世とは本質を異にする存在にされたからであると言います。
理由の第二は、キリストの福音は人々の罪を指摘し、その罪を贖うために来られた方であるという福音です。その福音によって救われ、その福音に生きる信者もまた、この世から憎まれるのです。
しかしキリスト者は、世から憎まれても、聖霊の証しに導かれて、キリストの愛を証しをする者となるのです。
確かに、信仰によって歩むことによって、世の敵意を一身に受けるという場合もあるが、その反対に、キリストを信じ、愛をもって生涯を貫くことによって、最後には世の人に信頼され、好意と尊敬を受けるという場合も、決して少なくありません。私達はむしろ、すべての人の中に兄弟また友人を見出し、和解と一致をめざして進もうとする態度を、生涯の基本的方針としなければなりません。
キリスト者の証しの原動力は、憎しみや怒りではなく、愛、喜び、そして希望です。敵を憎み、滅ぼし、殺すことが、神の名によって正当化されるほど恐ろしいことはありません。「あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らない知らないからである(ヨハネ16:2b~3)、とあります。ロシアのウクライナ攻撃、イスラエルのガザ地区の攻撃も神のみこころに適うものではありません。速やか攻撃の停止を祈りましょう。