富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「真の良い羊飼い」 ヨハネによる福音書10章7~18節

2018-04-16 15:14:22 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

             日本キリスト教 富 谷 教 会    週   報

年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

  復活節第3主日 2018年4月15(日) 午後5時~5時50分  

            礼 拝 順 序

                司会 佐藤 洋子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 405(すべての人に宣べ伝えよ)

交読詩編   23(主は羊飼い)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳) ヨハネによる福音書10章7~18節(新p.186)

司会者祈祷

説  教   「真の良い羊飼い」      辺見宗邦牧師

祈 祷

聖餐式    72(まごころもて)              

讃美歌(21) 459(飼い主わが主よ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷  

後 奏 

          次週礼拝 4月22日(日) 午後5時~5時50分

           聖書 ヨハネによる福音書13章31~35節

           説教題   「キリストの掟」

           讃美歌(21)403 520 24 交読詩編34編

  本日の聖書 ヨハネによる福音書10章7~18節

 10:7イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。8わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。9わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。10盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。11わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。12羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 13彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。14わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。15それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。16わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。17わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。 18だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

     本日の説教

 10:7イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。8わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。9わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。10盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。

 イエスは御自分を<わたしは羊の門>であると言われます。<羊の門>とは羊が出入りする羊の囲いの門です。ここでは主イエスが神の国、神の領域に人々が入る場合の唯一の入り口であることを、<わたしは羊の門>にたとえて言われているのです。<わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である>とは、ユダヤ教の指導者たちを指しといます。当時ファリサイ派の人々や長老たちへの自信と傲慢に対するイエスの痛烈な批判です。過去においても、エゼキエル書34章1節以下に記されているように、イスラエルの指導者たちに、神は<災いだ。自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。…お前たちは群れを養おうとはしない>と厳しい裁きの預言がなされています。これまでの偽りの指導者たち、救済者たちの盗人はやって来て、群れの羊を<盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするため>であった。わたし(イエス)は柵内の羊を、盗人から守る羊の門である。わたしを通て入る者は救われ、門を出入りして牧草を見つけ食べることが出来る。わたしが世に来たのは、羊が命を守られ、しかも豊かに養われるように、人々が永遠の命を与えられ、豊かな恵みと祝福とを受けるためである、と主イエスは言われます。

 11わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。12羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 13彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。

 7節ではイエスは<羊の門>に御自分を例えて語られましたが、11節では<わたしは良い羊飼いである>と御自身を<羊飼い>になぞらえています。この背景にもエゼキエル書があると思われます。そこではイスラエルの指導者たちを牧者に、民を羊に譬えて語り、その牧者たちが羊を食いものにしている罪を裁きましたが、この牧者たちの代わって羊である民を養い救うメシアの預言がなされました。<わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる>(エゼキエル書34・23)。この預言の成就としてイエスは来られたので、イエスは御自分を<わたしは良い羊飼いである>と宣言されておられるのです。<良い羊飼い>は羊を守るために命を捨てると言われます。牧羊生活の中では外敵に対して羊を守るために羊飼いたちが勇敢に戦い、ある場合には傷を負い、またある場合には命を失うことがあったようです。<自分の羊を持たない雇人>とは、自分自身の利益のため、生活の手段として羊を託されて羊を飼っている者のことで、偽りの指導者たちをたとえています。彼らは狼が来ると、羊を守らずに逃げ出します。偽りの牧者にとっては、彼は危険に直面すると、羊を捨てて逃げ去るのです。雇人は羊ことを心底から心にかけていないからです。すると狼は羊を襲い、羊たちを追い散らし餌食にするのです。羊のために本当に自分の生命を棄てる覚悟を持つ者、これが真の牧者です。最も深い意味において、真の羊飼いは主イエス一人のほかにいません。主エスは人々に永遠の命を与えるために自らの命を捨てられました。

 14わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。15それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。

 主イエスは良い羊飼いです。良い羊飼いは羊との間に、互いに深く知り合う関係をつくります。主イエスは人々と愛と信頼の関係をつくってくださいます。<わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている>と、主は言われます。<知る>という言葉で、わたしと羊の一体的な関係が語られています。さらに羊飼いと羊の関係を、父なる神と御子とのゆるぎない関係にたとえています。そのゆるぎない関係は、羊飼いイエスが羊にために命を捨てるということで保証されています。イエスの十字架の贖いの死が語られています。
 16わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。

 羊飼いイエスには、自分に身近な囲いの羊だけでなく他の囲いの羊のことも心にかけておられ、その羊も導かなければならいと言われます。ユダヤ人の救いだけでなく、異邦人を救うことを目指しておられます。御自身の前におられる人々への伝道だけでなく、広く世界を展望しておられるのです。地の果てに至るまで、イエスの証人となるように弟子たちを復活のイエスは派遣しています(使徒言行録1・8)。その羊もイエスの声、福音を聞き分け、信徒となるのです。こうして、世界の羊は一人の羊飼いイエスに導かれ、一つの群れになるのです。今日の教会は、現実には多くの教派、分派に分かれています。<一つの群>、<一人の羊飼い>こそ福音にふさわしい姿です。そのためには、わたしたちが福音に堅く立つこと、大牧者であるイエスを仰ぎ、その声に聞き従わなければなりません。

 17わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。 18だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。

 <わたしは命を、再び受けるために、捨てる>とは、主イエスが十字架の死の後に、復活を信じていることが表されています。それが父なる神の御心に従うことになるので、父なら神は御子イエスを愛してくださっておられる。だれも父なる神とかたく結ばれているイエスの命を奪い取ることはできません。しかし、十字架の死は、神の御心に従う死ではあるが、同時に主イエスが自ら世の人々を愛し、救うための自主的な死であり、御自分でその命を捨てられるのです。イエスは自分の意志で命を捨てることもで、その復活の命を再び、父なう神から受けることも出来るのです。<父から受けた掟>とは、イエスの十字架と復活が神の計画、神の意志から発している命令である、ということです。

 詩篇23篇1節に、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」といダビデ王の詩があります。まさに主イエスはわたしたちの良い羊飼いであり、真の羊飼いとなってくださいました。この羊飼いに従う群れであるわたしたちは、<何も欠けることが>あいません。わたしたちは主イエスに養われているのです。<満ち足りる心>をもたらすのは、羊飼いであられる神・主イエスです。

 

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