こんにちは、あすあさです。
今日は小中学校での教育の意味って、けっこう素晴らしい面もあるよねーという話です。
今わたしは31歳で、子供もいないので小中学校の教育について考える機会なんてなかったんですが。
先日ふとクラシック音楽を聞きたいなーと思ってYoutubeを開いたんですが
「・・・あれ、クラシックってどうやって検索したらいいんだ!?」ってなりました。
普段クラシック聞かないから作曲家とか曲名がわかんないんですよね。
で、むむむ~としばらく頭をぐるぐるさせたら、ふと
「あ、なんか中学校の美術の授業できいた、音楽好きだったな・・・なんだっけ、美術館の絵みたいなやつ・・・」」
と昔の記憶が出てきたんです。
検索すると、ムソルグスキーの展覧会の絵という曲でした。
なんでそれを美術の授業で音楽を聞いたのかは覚えてないんですが、すごくいろいろな想像をしながら曲を聞いて、表現の世界に触れて興奮していた自分を思い出しました。
「この曲はどんな場面を描いてるんだろう」
「どんな絵を見ながら作曲したんだろう」
「この速いテンポの部分は何を表現してるんだろう」とか。
で、思ったんですけど、そんないろーーんなジャンルの世界に触れられるのって小中学校の義務教育期間くらいですよね。
高校は進学校だったので予備校みたいで、とにかく受験のための勉強しかしなかったです。
音楽とか美術は選択できてたしか1年生までだったような。
大学は自分の興味で授業も選ぶから、趣味嗜好に偏りが出ますよね。
だから、小中学校でいろんな教科をまんべんなく学ぶっていうのは、子供のあらゆる感受性とか興味を引き出すためにやっぱり必要なステップなんだなーて改めて思ったんです。
そんなのみんな知ってるからそういうカリキュラムになってるんでしょうけどね。
でもそれほど大事な教育の場なのに、先生という仕事ってめっちゃくちゃ大変そうじゃないですか。
子供にそれぞれのジャンル・教科の素晴らしさを伝えるのが仕事なはずなのに、生徒指導とか修学旅行の引率とか部活とか、なんか教えること以外の仕事が多いと思うし給料がすごい高いわけでもない。
わたしは小学校のときも中学校のときも、担任の先生とかまわりの大人から「あなた先生になったらいいわ!向いているわ!」と言われることがほんとーーーーに多くて、
スピリチュアル的な能力を持ってる人にもいきなり顔を見るなり「あらーーー素敵な先生になれるね」とか言われたこともあって、
教師という職業になんとなく感情移入しちゃうんです。
それだけまわりから勧められても、わたしとしては一度も教師を目指そうと思ったことはなくて、
それはさきほどの「やることおおすぎるし報われない感じがする」ていうのが子供のわたしの目から見ても明らかだったからです。
で、何がいいたいかっていうと、
先生たち本当にやること多いし報酬も見合わなくてやるせないかもしれないけど、
でもあなたたちが植え付けてくれたあらゆるジャンルの興味は、
大人になってからふと芽を出すこともあって、しかも大人になって仕事で疲弊した心にふわっとした豊かさを与えてくれるきっかけにもなったりしています。だから、ありがとう感謝しています。ということです。
31歳の今、ムソルグスキーを聞かせてくれた美術の先生を思い出すと
楽しそうに興奮気味に美術の知識を話している姿が浮かびます。
当時のわたしは先生という人種があまり好きではなくて、美術も特に好きじゃないし
一歩引いた冷めた目で教師という立場の人を見ていたけど
それでも楽しそうに声をはずませて美術の歴史とかを話していた先生の姿ははっきり覚えてます。
やっぱり何かを好きだという気持ちを持ってる人は、他人によい影響を与えてくれるんだなーと思いました。
また別の数学の先生が、黒板に書いた数式を見て「ほら、美しいでしょ!わかる?この美しい数式!」と言ってたのもはっきり覚えてます。
「数式が美しいっていみわかんな~い」と中学生のわたしは思ってたけど、
でもやっぱりあの先生のうれしそうな目ははっきり覚えています。
だからやっぱり自分が興味のないジャンルにも触れる機会があふれている義務教育という期間は、こどもの感受性に大きく影響するんだなと思いました。
そして仕事が大変すぎて疲弊している先生たちでも、すてきな影響を子どもたちに与えてるんだろうと思いました。
日本の教育は個性を伸ばせないからだめだ、英語を学んでるのに話せるようにならない、とかいろいろ指摘されてますし、
わたしも英語話せないままですけど笑
でもわたしは20年前の教育でも、すてきな感受性を育ててもらったことに感謝してます。
ありがとうーーーー。