なんとなくお気づきとは思いますが、私は古典が好きです。

と、言っても中学や高校の古文、漢文をなんとなく覚えているくらいなので、
好きです
なんて言うのも恥ずかしいですが。

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で、いつもこのお花見の季節に思い出す古典がこちら、
徒然草 の一編。

 花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは

全文は長いので解説リンクを貼ります。


花は満開のときだけ、月は満月のときだけを見るものでしょうか。(いや、そうではない。)

雨に向かひて月を恋ひ、垂れ込めて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し。

 

雨に向かって(見えない)月を恋しく思い、簾を垂らした部屋に閉じこもって春の過ぎゆくのを知らないでいるのも、やはりしみじみと感じられて趣が深い。


 

咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見どころ多けれ。

 

(きっと今にも)咲きそうな梢や、散ってしおれている庭などこそが見所が多い。

 

、、、と続くのですが。


うんうん、
一番美しいときを見逃してしまった時にどう感じるべきか、ってことですね。

美しい古文では
なほあはれに情け深し
と思えと。

現代風には
妄想力
ってところでしょうか。

得意分野です。

あと数日たてばさぞ綺麗だろう、
数日前なら綺麗だったろう。

がっかりせずに、
美しいときを想像し、
あはれ を感じよ。
全てが完璧なことだけが美じゃない。
妄想せよ。
その妄想こそが、趣を解する人の所作である、と。

文章はさらに
男女の仲も同じである、と。
逢えないときの苦しさやもどかしさも、また あはれなり と。


この考え方、とっても素敵だなって
中学?高校?で思いました。
マセガキでしたからニヤリ
この話、絶対みなさん古文で習っていると思いますが、記憶にありますでしょうか?

ちょっと拡大解釈ですが、
花見や満月に限らず、
後一歩何かが足りない、ってよくあることだと思うんです。
旅行先のお天気はもちろん、
恋だって
仕事だって
子育てだって。

努力で解決することは努力すればよいのですが、
お天気とか、
自分のコントロールできない所与の環境とか、
そんなことは
一歩下がって、
あはれ
って思えば、楽になるかな、って思います。

上手くいかないこと、辛いこと、
があるから望み通りになったときにうれしいのですから、
いまの辛さだって あはれ の糧なんだと。
程度問題ではありますけどね。


私は
超プラス思考人間
と自認していますが、
この徒然草の一編は、そんな私の人生観を形作るのに一役買っている思います。
プラス思考は諦観と裏腹です。



この徒然草の一編が教科書に載る、ってことは
日本人にとって普遍的価値がある文章、
ってことなんだと思いますが、どうでしょう。



で、この兼好法師のお話は

田舎者なんかに限って、
花見で大騒ぎして、しまいには枝を折ったりしてしまう。
まったく風流を解さない田舎者は、、

と〆られます。


アメリカではお花見の風習はありませんが、
日本のみなさま、

今年のお花見は、満開を逃しても、
ちょっと風流なつもりで、
妄想に耽ってみてはいかがでしょう。