昨日はですね仏教には悟りの段階のようなものが残されているんですが、その初期段階の
有身見について書いてみました。
上記に昨日の記事のリンクを貼っておきましたので、ご覧になっていない方は上記のリンクから飛んでください。
で、実はこの有身見に至る前の前段階というのがありまして、それが預流向(よるこう)なんだけど、この預流向ってのは、悟りに対する姿勢というのでしょうか、その流れに興味を持ち
その真理の流れに向かおうという姿勢と言ってもいいかもしれません。
そこに向かおう・身を任せよう。
このようなニュアンスの方が
軽くていいかもしれません(笑)
その姿勢からとうとうその成果が現れることを
預流果(よるか)といいます。
こうして一瞬でも真理を垣間見ることにより
その時に昨日の記事でも書いた
有身見と同時に二つの煩悩が消えます。
まずは疑(ぎ)ですが、読んで時のごとく、
体験的にわかちゃったりしたもんだから
『(私)なんていう独立した存在などどこにもないよね』という「無我」だとか「無常」に対することへの疑いが無くなります。
もうひとつの煩悩の戒禁取(かいごんじゅ)
も消えます。
戒禁取の意味は
あらゆる作法だとか
しきたりだとか
修業だとか
お作法だとか
そのような昔からある文化やルールに対して
『そうしなければならない』
っていう強迫観念のようなものに
縛られながら生きなきゃならない
ってことへの無意味さを理解します。
もちろんそれはその国特有の文化的なものも数多く含まれていますので、すべてを否定するってんではないんですが、そこで生まれたことにより生まれながらのその文化によってそこに息苦しさを感じるのであれば、それはその国の価値観とか観念の一部であり、それが戒禁取である。ということで、それはただその国の文化なのだという理解と、そうしなければいけないことはないよね。という理解だったりします。
個人レベルでも家庭のしきたりだとか
作法だとかもあると思いますが
それらもすべて観念から生まれているもので
あるからして、それらも戒禁取ということに
なるのですよ。
それで、うまく機能していればなんら問題はないのですが、それらに縛られていきる必要もないですよね。
作法やルールも社会で生きていくには
必要なケースもあると思いますが
それはあくまでも人が造り出した
社会を円滑にさせるための
形式上のルールであるからして、
人が造り出したルールによって
人が縛られて生きてしまうのは
なんとも皮肉なものだとも思いますよね。
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