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万葉集と書紀の食い違う記述・麻績王には如何なる罪があったのか

2018-02-02 13:16:38 | 71麻績王・万葉集と食い違う正史の記述

 

万葉集巻一23、24・番歌の麻績王(をみのおほきみ)とは何者か

 

麻績王にはいかなる罪があったのか・人が同情したのはなぜか

 

 

23 打ち麻(そ)を 麻績王 白水郎なれや 伊良籠の島の玉藻刈ります

 

24 空蝉の 命を惜しみ浪にぬれ 伊良麌の島の玉藻刈り食(お)す

 

巻一「明日香浄御原天皇代」に在るこの歌は不思議です。麻績王(をみのおほきみ)が伊良麌(いらご)の島に流罪になった時の歌で、物語のように掲載されています。それも、周囲はこの麻績王に深く同情しています。しかも、書紀と万葉集では流された場所が異なるのです。

 

「明日香浄御原天皇代」の歌は六首で、うち三首が天武天皇の歌、一首は「十市皇女が伊勢に参詣する時の吹芡刀自」の歌です。ですから、ここに天武朝と何のかかわりもない人の歌が掲載されたとは考えにくいのです。が、麻績王がどんな人物か、その罪科が何かも分かりません。後の世の人も分からなかったのか、左注に説明があります。

 

左注によると「三位麻績王」ですから、決して低い身分ではありません。一子は伊豆の島に、一子は血鹿の島(五島列島)に流されていますから、子ども達は遠流(おんる)になります。父親より罪が重いのです。すると、吾子の罪により麻績王も流罪になったというのでしょうか。

 

 

 

また左注には、書紀を調べたことが書かれています。確かに「天武四年乙亥(675)に麻績王の記事があります。「(天武四年)辛卯に、三位麻績王、罪あり、因幡に流す。一子は伊豆の島に流し、一子は血鹿の島に流す」

 

因幡(いなば)と伊良麌(いらご)は別の土地です。地名が混同したのは、この歌が詠まれた時期が天武四年より後の時代だったからでしょうか。すると、麻績王の話がずっと残されていたことになります。歌枕としての「伊良麌の島」は、渥美半島にあります。当時は、志摩国はまだ成立していなくて、志摩半島から渥美半島の海上の島々は全て伊勢国に属していたそうです。ですから、対岸の伊良湖岬にちなんで「伊良麌の島」と歌に詠んだと云うことです。

 

また、書紀では因幡ですが、「常陸国(ひたちのくに)風土記」では、『行方郡板来村の西の榎木林に居らせた』と書かれています。流刑地が三か所もあると、異伝が残るような事件だったのでしょうか。麻績王の出自に関しては、大友皇子、美努王、柿本人麻呂などの諸説があるそうで面白いですね。

 

わたしは、万葉集の歌の掲載順が気になります。万葉集は事件を暗示する時、原因と結果が歌によって示されることがあるからです。23・24番歌の前は22番歌ですが、十市皇女が伊勢に参赴する時の歌です。伊勢? 確か、伊勢には麻績神社があります。麻績氏は忌部氏とも関係が深く、麻績王は神官の家系だったのかも知れません。

 

万葉集と日付けの干支が違いますが、天武四年に何があったのでしょうか。

 

では、万葉集巻一・22番歌をよんでみましょう。

 

 

何とも切ない歌ですね。十市皇女は当時28歳くらいでしょうか。額田王と大海人皇子の間に生まれた皇女でした。母の額田王について天智天皇の近くにいたからでしょうか、大友皇子の妃となり、将に皇后になるべき位置にいたのですが、壬申の乱で夫を失い、傷心の内に父・天武帝の元に子連れで戻っていたのでした。そこで、妹の大伯皇女が斎宮になっている伊勢に参赴したのです。目的は何でしょうね。

 

傷心の十市皇女を慰め、心の傷から立ち直らせるためだったと、神力で再生して別の男性に嫁がせるためだったと、わたしは思います。

 23・24番歌の前の22番歌「伊勢神宮に参赴する十市皇女のために詠んだ吹芡(ふふき)刀自の歌」

22川のべの ゆつ岩群に 草むさず 常にもがもな 常乙女にて

 もう何も知らなかった乙女に戻ることはできません。十市皇女は辛いことまで知り過ぎましたから。でも、天武天皇は、「何もかも忘れて、もう一度幸せになってほしい」と願っていたはずです。伊勢から戻った十市皇女を、事もあろうか高市皇子の妃にしたのです。夫の大友皇子を死に至らしめた壬申の乱の総大将の妃にしたのです。どう考えても、現代の私たちには十市皇女が幸せになるとは思えません。当時の男性にはその事が分からなかったのです。「女性は何度でも生まれ変わってくれる」とでも、思っていたのでしょうか、天武四年の頃。

十市皇女の伊勢参赴は2月で、麻績王の流罪は4月です。二つの出来事は無関係でしょうか。麻績王が伊勢にいたのなら、接点は十分にあります。

この後、心の傷も癒えない十市皇女は苦しみ続け、天武七年(678)四月、皇女は自殺します。皇女を支えきれなかった高市皇子も苦しみ、万葉集に挽歌を残しています。

 

では、麻績王の物語と十市皇女の伊勢参赴が並べられている理由

この事を考えようとすると、十市皇女の姿が脳裏をよぎります。23・24番歌は、持統天皇が伊勢に行幸した時に奉られた歌でしょうか。そうであれば、十市皇女も高市皇子もすべてこの世の人ではありません。だから、古を偲び伊勢に関してみんなが知っている出来事を歌にしたと云うことです。

あの時、麻績王は十市皇女のために様々な祈祷を行われたではないか。王の男子二人も心から皇女を助けようとされた。しかし、それも空しく皇女はお元気にはなられなかった。むしろ、過去の苦しみと向き合い苦悩は深くなられた。麻績王はその事で、流罪になられた。むごいことだと、わたしたちは、いまだに麻績王を偲んでいる。あの方の優しくも穏やかなふるまいを忘れることはない。 

23 打ちそを 麻績王 海人なれや 伊良麌の島の 玉藻刈ります

24 うつせみの 命を惜しみ 浪にぬれ 伊良麌の島の 玉藻刈り食す

人の世は、決して甘くはありません。どんなに身分が高くとも、そのことで幸せになることはないのです。

麻績王は穏やかな方でしたが、王の一生を思うとお気の毒ですと、万葉集は語っていると思うのです。

貴方は、どう読みますか?


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