ヤマトトトヒモモソヒメ徒然記

たわいのない日常事をしたためております。

応神、允恭系王統と三島   太田茶臼山古墳

2017年04月07日 01時09分44秒 | 日記
3月19日は今城塚歴史館で行われる太田茶臼山とヤマト政権という題の講座を聞きに行きました。

講師は二上山の時の先生でした。あちらこちらと講座に呼ばれていらっしゃるのですね。


允恭天皇の古墳と太田茶臼山古墳はまるで設計図が一緒かのように似ているそうです。

継体天皇のひいじいさんである 意富富矛王のお墓が年代的にも王族墓としても相応しい太田茶臼山古墳ではないかというお話でした。

日本書記や古事記はある思想に基づき一貫して貫かれているものがあるそうです。

仁徳、反正、履中、仁賢、顕宗、欽明などを正とし、

応神、允恭、安康、木梨軽皇子、軽大郎女、雄略、継体を非とする考えがあるそうです。

譲りあいの精神(中国思想の影響)でもって、皇位を譲りあった、仁徳や仁顕、顕宗などをよく書いているようです。

逆に言うと譲り合わなかったことがあったのかと?考えてしまいました。

旧辞、帝紀は欽明朝に書かれ、それを元に古事記、日本書紀が書かれているということですので、

6世紀に台頭したのは蘇我勢力であり、葛城の血筋を伝える一族でもあります。葛城氏を悪く書くことはなかったかも・・・

日本書記、古事記の編纂は720年、712年ころですから、その頃に大臣職にあったのは藤原家でもあります。

こちらは蘇我氏の血筋も入った家柄ですが・・・

允恭天皇の妃としてオオナカツヒメの妹を滋賀の坂田まで迎えに行く役割が中臣の祖先がしており、この妃を大和藤原宮に住まわせているらしいです。

藤原氏と允恭天皇の関係も、淀川を巡ってどう展開されていたのでしょうね。



今城塚古墳の近くには小さな古墳がたくさんあり、その系脈は途切れることなく、今城塚まで続いているようです。






横に川を隔ててある、太田茶臼山古墳は宮内庁が認めた継体天皇陵といわれますが、いろいろなところの講座を聞いてみますと、今城塚古墳が真の継体天皇陵となるようです。




今回は陵墓を歩くことはしませんでしたが、写真をたくさんとってきました。





お相撲さんが古代からいるのですね。



廻りの建物もどういう意味があるのでしょうか。

配置は発掘当時を参考に再現されているようです。



祭祀の女性がなにか力を込めて祈っているように見えます。




阿蘇のピンク石の石棺の一部も見つかり、去年は新聞をにぎわせていましたね。





井戸へ洗濯へ向かうとき、この石を橋にみたてて渡りにしていたことがあり、転ぶ人が多いためお寺に収めたそうそうです。





1500年もたつのに、きれいなピンクです。

当時はもっと色鮮やかだったのでしょうね。


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