1月28日 <天正遣欧少年使節をローマに派遣(1582年=天正10)>

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436年前のこの日、天正遣欧少年使節の一行は、ポルトガルの定期船に乗り、長崎を出発しローマへと旅立ちました。

これは安土桃山時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1549年(天文18)、日本布教を志したイエズス会(耶蘇会)の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着し、大内義隆・大友義鎮(宗麟)らの大名の保護を受けて布教を開始しました。

当時、ヨーロッパでは宗教改革によるプロテスタントの動きが活発でしたが、カトリック側も勢力の挽回を図り、アジアでの布教に力を入れる修道会も多かったのでした。その一つがイエズス会です。

日本では当時、キリスト教をキリシタン(吉利支丹・切支丹)宗・天主教・耶蘇教などと呼び、宣教師をポルトガル語のパードレから転じたバテレン(伴天連)の名で呼びました。

 

ザビエル以降も、宣教師は相次いで来日してきました。そして南蛮寺(教会堂)やコレジオ(宣教師の養成学校)やセミナリオ(神学校)などをつくり、熱心に布教につとめました。

ザビエルのあと、ポルトガル人宣教師ガスパル・ヴィレラや「日本史」の著者として知られるルイス・フロイスらが九州を中心に近畿・中国地方の布教につとめキリスト教は急速に広まっていきました。1582年(天正10)頃、信者の数は肥前・肥後・壱岐などで11万5千人、豊後で1万人、畿内などで2万5千人に達したといわれています。

 

ポルトガル船は、布教を認めた大名領の港に入港したため、大名は貿易を望んで宣教師を保護するとともに、布教に協力し、なかには洗礼を受ける大名も居ました。

彼らの事をキリシタン大名と呼びますが、そのうち大友義鎮(宗麟・洗礼名フランシスコ)・有馬晴信(プロダジオ、後にジョアン)・大村純忠(ドン・バルトロメオ)の3大名は、イエズス会宣教師のヴァリニャーニの勧めにより、彼らの近親者である伊東マンショ・千々石ミゲル・中浦ジュリアン・原マルチノら4人の少年使節をローマ教皇のもとに派遣することにしました。

この使節は天正遣欧使節・天正遣欧少年使節とよばれ、1582年(天正10)のこの日、ポルトガルの定期船に乗り、長崎を出発しローマへと旅立ちました。彼らはゴア・リスボンを経てローマに到着し、教皇グレゴリウス13世に会い、1590年(天正18)に帰国しています。

 

下の画像は、天正遣欧使節の肖像画で、タイトルには「日本島からのニュース」と書かれています。画像は例の如くWikipediaからの無断借用です。画像またはその下の青文字からWikipediaの大きな写真が見られる様にリンクを張ってあります。

右上・伊東マンショ、右下・千々石ミゲル、左上・中浦ジュリアン、左下・原マルチノの4名が日本からの使節のメンバーで、中央はメスキータ神父です。

<天正遣欧少年使節肖像画>

 

下の画像は、伊東マンショが教皇グレゴリウス13世に拝謁する時の絵です。

<伊東マンショ、教皇グレゴリウス13世に拝謁するの図>

 

この時期の有名なキリスト教の信者といえば、明智光秀の娘で細川忠興夫人の細川ガラシャも忘れてはならない存在ですねぇ。

 

2.過去年の記事

過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。

  • 2017年記事:<第一次上海事変勃発(1932年=昭和7)>

 

今日はここまでです。

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