5月14日 <大久保利通、紀尾井坂で襲われ世を去る(1878年=明治11)>

スポンサーリンク

1878年(明治11)のこの日、大久保利通は参内するために馬車で移動中、紀尾井坂で不平士族に襲われ命を落としました。

これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
広告


スポンサーリンク
スポンサーリンク

1.解説

 

1873年(明治6)10月に起こった政変(明治6年の政変)によって、西郷隆盛ら征韓派の参議が一斉に下野し政府が分裂したあと、内務省をつくって参議兼内務卿となった大久保利通は絶大なる権力を振るっていました。

翌1874年(明治7)、その前年の政変で政府を辞職した旧参議の多くは「民撰議院設立建白書」を提出して、政府の<有司専制>を鋭く攻撃しましたが、この有司専制とは大久保利通が絶大なる権力を奮って独裁状態であったことを指します。

さらに、1877年(明治10)2月に起こった西南戦争で西郷隆盛を倒した大久保利通に対して、新政府に不満を抱く不平士族たちの怨恨が集中していたのです。

 

大久保もそうした事態を十分に心得ており、反乱計画の摘発・鎮圧につとめつつ、明治政府の体制変更の準備を進めていました。それは、自らは侍補からの要請に乗る形で宮内卿に就任し、明治政府と天皇の一体化を目指し、国内の政務については、伊藤博文に内務卿を譲ろうとしていました。

 

1878年のこの日、大久保が宮内卿に移ることに関して伊藤博文のもとに人が集まって打ち合わせていたところ、大久保から

「急ぎ参内するので君もきてくれるように」

と手紙が届きました。

大久保は、この手紙を伊藤に送り、この日の午前8時半から宮中で行われる元老院会議に出席するため、早朝、裏霞ヶ関三年町の自宅を2頭立ての馬車で出発しました。いまの清水谷公園のある、淋しい清水谷にさしかかった紀尾井坂で惨劇が起きました。

 

そう、襲われたのです。

 

護衛は居ませんでした。

 

待ち伏せていた者は、石川県の士族島田一郎・長連豪(ちょうれんごう)ら6名で、彼らは最初の馬の脚を斬って、馬丁を亡き者にし、馬が倒れて馬車が傾いたところを、左右両側からニ刀三刀と刺し貫きました。大久保が息も絶え絶えに這い出し、ヨタヨタ歩いたところをメッタ斬りにして、とどめを刺した、とされています。

 

その遺体に立ち会った内務少輔前島密(まえじまひそか)よれば

「ソノ光景誠ニ惨憺、茫然自失、公ノ遺体ヲ点検シタル時、肉トビ、骨砕ケ、頭蓋裂ケ、頭脳ノミ尚微動スルヲ見ル」

という状態だったとか。

この暗殺犯、島田一郎らは即日自首し、彼らが宮内省に呈上した斬姦状は、侍補らの手によって明治天皇の御手元に供されました。そこには

「当時姦魁(かんかい)ノ斬ルベキ者ヲ数フ。曰ク木戸孝允、大久保利通、岩倉具視是レ其最巨魁(さいきょかい)タル者。大隈重信、伊藤博文、黒田清隆、川路利良ノ如キ、亦許スベカラザル者……。其根本を断滅セバ枝葉随(したがっ)テ枯落(こらく)ス」

そして、その斬姦の理由として

「第一、公議ヲ途絶シ、民権ヲ抑圧シ、以テ政治ヲ私ス」

「第二、法律ヲ私スル……」

そして、この斬姦状の最後には

「願クハ明治一新ノ御誓文ニ基キ 8年4月ノ詔旨ニ由リ 有司専制ノ弊害ヲ改メ 速ニ民会ヲ興シ 公議ヲ取リ 以テ皇統ノ隆盛 国家ノ永久 人民ノ安寧ヲ致サレンコトヲ」

と書かれていました。

この島田一郎らは、同年7月27日に斬罪に処されました。彼らは熱狂的な西郷隆盛のファンであったそうです。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

昨年は記事作成をサボっていたので、この項目は無しです。

今日はここまでです。

広告



こちらのリンクからは他の方のblogをご覧頂けます。日本史に関する様々な情報満載ですよ。一度だまされたと思ってポチッ!とな…とされては如何ですか?
↓↓↓
スポンサーリンク
スポンサーリンク
5月出来事
スポンサーリンク
シェアする
wpmasterをフォローする

コメント

Translate »
error: Content is protected !!