5月2日 <会津藩主加藤明成を改易(1643年=寛永20)>

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1643年(寛永20)のこの日、会津藩主加藤明成は、江戸幕府に40万石の領地返上を申し出て断絶と相成りました。その原因は、会津騒動(あいづそうどう)とよばれる出来事にあったと考えられています。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

今日の記事の出来事を語るにあたって、先ず「会津騒動」についてのご説明が必要です。

この会津騒動というのは寛永年間に、会津加藤家でおこった御家騒動なんです。

1627年(寛永4)、伊予国松山藩主加藤嘉明は20万石から40万石に加増され、会津藩主として会津若松城に移りました。そして、その4年後の1631年(寛永8)に嘉明は他界し、41歳の嫡男式部少輔明成が家督・封の相続を許されました。

会津騒動とは、この明成と嘉明の重臣であった支城猪苗代城主堀主水との争いです。

 

堀主水は、もともとは嘉明の児小姓でしたが、大坂の陣で嘉明を守り手柄を立てたので、その功績によって堀氏の姓を与えられ、諸士の司となり、金の采配を許された、という経歴の持ち主でした。

ところが、嘉明の跡を継いだ明成と主水とは、政事万般にわたって意見が対立し、ある時、堀主水の従者と、他の士の従者との間にトラブルが発生した時に、明成が理を非として主水の従者を罰し、そのことを訴え出た主水の役職や金の采配の権利を取り上げたことから、この会津騒動が始まったのでした。

 

1639年(寛永16)4月16日、主水は妻子眷属従者300余人を率い、槍・鉄砲を装備して会津を出奔してしまいました。城下を出はずれる所では、若松城に向けて発砲ぢたそうです。余程据えかねていたのでしょうね。

 

その後、主水一行は鎌倉を経て高野山に逃れ、なおも執拗な明成の討っ手を避けて、紀州徳川領に隠れたりしましたが、遂には江戸に出て、幕府の大目付に訴え出たのでした。その訴状には、明成の大規模な城改修のこと、関所の設置・警備のこと、大坂落城に落涙し、剃髪に及ぼうとしたことなどが書かれていたそうです。

 

1641年(寛永18)、幕府はこれを審問し、訴えには道理があるようではあるが、兵を挙げて出奔し、橋を焼き落としたり、関所を破ったり、城に鉄砲を撃ちかけたことは、

「家臣の礼を失ひ国家の法をみだる。罪ゆるさるべからず」

との裁決を下して、主水および弟に2名を明成に処罰させました。

 

その2年後の1643年(寛永20)4月に、加藤明成は

「我は病で藩政を執れる身ではなく、また大藩を治める任には堪えられず、所領を返還したい」

と会津40万石を幕府に返上し、翌5月にこの日、幕府は加藤氏の改易・取り潰しを命じました。

 

会津城修築、飢饉・農民の逃散による領内支配の動揺と並んで、この会津騒動が明成の領地返上の一つの動機になったと考えられています。

ところで、この加藤明成という大名はどんな人物だったか…と見ると良い評価もあればとんでもなく悪い評価もあります。

悪い人物評は

  • 「天性吝嗇(どケチ)・収斂(徴税のこと)をもっぱらにした暗君で世人は加藤一分殿と呼んだ」(本朝武林伝)
  • 「私欲日々に長じ、家人の知行、民の年貢にも利息を掛けて取り、商人職人にも非道の運上を割付け取りける故、家士の口論、商工の公事喧嘩止むことなし」(古今武家盛衰記)
  • 「明成財を貪り民を虐げ、好んで一歩金を玩弄す。人呼んで一歩殿といふ。歴年、貪欲暴横、農商と利を争ひ、四民貧困し、訟獄止まず、群臣あるひは諫むるも聴かず」(大日本野史)

とまぁ、ロクな言い伝えがない一方、良い人物評は、明成に仕えた横田俊益の年譜によると、明成は好学厳正の人物であったと述べられています。

悪い評価だけを見ると、諌め役の先代の重臣であった主水と若殿(若くもありませんが)との対立といった考え方も出来なくはありません。

 

加藤氏の領内支配の形態を見ると、たしかに領民からの収取を重くし、判金を要求、それまで米納一本の村にも半石銭納を命じ、金子への強い欲求を示しています。しかしながら、全国的な商品流通の展開するなかで、このことは加藤明成に限ったことではなく、また会津移封に伴う加藤氏の財政収支の悪化を考えると、必ずしも吝嗇・収斂を、明成の個性とするのは些か気の毒な様にも思われます。

 

この会津騒動に始まる領地返上は、近世初頭、幕藩体制確立の過程で、藩政を整備していくにあたり多く見られた、実権を握る重臣と、藩主あるいはその側近衆との争いから起きた御家騒動の一つのパターンといっても良いかもしれません。

 

ところで、この加藤氏、江戸幕府は明成の子・明友に石見吉永藩1万石を新たに与えて家名を再興させた、という記録があり、幕末まで小大名として残ったそうです。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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