7月3日 <江戸幕府、上げ米を命じる(1722年=亨保7)>

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1722年(亨保7)のこの日、江戸幕府は諸大名に対して領知高1万石に対し100石を献上、すなわち上げ米をするように命じました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1716年(亨保元)に江戸幕府第7代将軍徳川家継が8歳で他界し、家康以来の徳川本家が途絶え、御三家の一つである紀伊藩主の徳川吉宗が第8代将軍に就きました。

吉宗は将軍職就任後、「享保の改革」と後世に呼ばれる幕政の改革につとめました。改革の重点は幕府財政の再建におかれ、まずは倹約令を出して支出の削減を図るとともに、収入の増大策を講じました。

 

その頃の幕府の財政は窮乏しており、旗本への俸禄の支給もままならないほどでした。1722年(亨保7)2月に儒学者の室鳩巣(むろきゅうそう)が奥村源左衛門に送った手紙によれば、吉宗の倹約はいよいよ切り詰めたものになり、朝夕は一汁三菜に限り、城中で諸老中に出す料理は一汁一菜に決められた、とあります。また、それまで三献(さんこん)であった酒がわずか一献に節約されていました。

 

しかしながら、そうした節約のみでは財政の状態は好転しませんでした。

 

そして、遂に吉宗は1722年(亨保7)のこの日、老中の議を受け入れて諸大名に対し領知高万石につき100分の1の上げ米を命じたのでした。

 

この「御恥辱を顧みられず」と言われた上げ米の見返りとして、諸大名の参勤交代による江戸居住を半年免じて、江戸半年、国元1年半という具合に参勤交代の緩和を行ったのです。全ての物をカネで買い調えなければならない江戸居住は、多くの大名にとっては多大な財政支出を伴っていたので、この1%の上げ米による石高1万石につき100石の献上は、すんなりと受け入れられたのでした。

室鳩巣らは、幕藩関係の根幹をなす参勤交代制度の緩和は、大名統制上重大な問題である、と危惧しましたが、上げ米の総額は18万7000石にのぼり、当時の幕領の年貢収入高140万石の13%以上に及び、旗本・御家人への俸禄の50%強に当っていました。

是非はともかくとして…この上げ米の制によって、幕府財政は破綻を免れたのです。その年の暮には、元禄のころから返済が滞っていた借金も、交渉を重ねて16万両にまけてもらって返済を完了させたのでした。

 

上げ米の制についで手を付けた、新田開発・年貢の増徴・商品作物の奨励といった抜本的な増収策により、幕府の年貢収納高は以下の様に増大しました。

  • 1716年(亨保元)ころ:140万石
  • 1727年(亨保12)ころ:160万石
  • 1744年(延享元)ころ:180万石

 

吉宗は、この上げ米の制はあくまで一時的な政策と考え、幕府財政が安定してきた1731年(亨保16)にいたって漸く廃止し、同時に参勤交代も旧に復したのでした。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

昨年は記事作成をサボっており、この項は無しです。

 

今日はここまでです。

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