うつ病母の介護生活を経て、自分らしい人生へ

うつ病母の介護生活を経て、自分らしい人生へ

3年にわたる壮絶な介護と7年の施設と精神科の通院付き添いの後、親から卒業し、40代にして自分の人生を歩み始めた私が
幸せに生きるヒントをお届けします。

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当Blogにお越しいただき、ありがとうございます。
心と体は繋がっています。
お話を伺いながら、あなたの五感を使って、記憶の図書館(潜在意識=あなたの本心)からのメッセージを解読し、あなたらしくしなやかに生きていくためのお手伝いをしています。


3年にわたるひとりっ子長女(私)と母親との壮絶な介護の記録↓

http://ameblo.jp/symbol-life-fountain117/theme-10101925613.html


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前回の続きです。



段々と食べ方も変になり、尊敬していた父に嫌悪感を持つようになりました。
今思えば、手に痺れがあったのかもしれません。

この時の私は、19歳。
印刷会社に勤める会社員になっていました。

学校やバイト以外での初めての外の世界。
仕事と職場の人間関係についていくのが必死。
疲れて帰ってきて、父への遅い遅い反抗期を迎えていたこともあり、やがてご飯も自分の部屋で一人食べるようになりました。

私からの言い訳とすれば…
食事前にズボンをおろしてお腹に注射を打ち、お皿に顔を近づけて食べ、働きながらも一日三回の食事を作ってくれた母に文句を言う人と食べたいなんて誰が思うのでしょうか?

病気を理解しきれていなかったこともありますが、一緒に居るなんてやはり無理。
ドライブや親戚へのあいさつの外出も避けるようになって行きました。

母も私と父の間をすごく心配するようになりましたが、仕事と家事で精一杯なのでほぼ何もできず。

定年退職を迎えて、家に一層居るようになった父とはこれ以上無理だと思い始めていました。
働いて貯金もそこそこになったら、この家を出ると会社の人にも相談をしていたほどでした。

もちろん父は猛反対しましたがショック

それまではパパ子だった私。
高学歴の親戚に圧倒されて、いつも両親の後ろにいた私が初めて『自立』を考えた時でした。

仕事真面目で怖い人だけど、家ではお茶目で頼りになる一家の大黒柱。
病気になり母や周りを罵倒、犬食い、浪費。
病気がそうさせている。
とは思っていましたが、段々と私の知っている父ではなくなってきたという気持ちがよぎっていました。






私が食にこだわるようになった理由は、
21歳の時に目の前で父が亡くなったことから始まります。



亡くなって数年後、
『でも父は病気になって、怖い性格になってしまったの?』
という疑問が残りました。

父の最初の病名は『糖尿病』
今でいう所の生活習慣病ですね。
自宅で注射を打って、通院する生活を繰り返していました。

最初の頃は、至って何も変わらず。
いけないことはいけないとハッキリと叱りますが、それ以外は色々な事を教えてくれる私に優しい父。

休みの日しか一緒に居られる時間は中々なかったのですが、中学校のいじめに遭った時には、いじめっ子の親に電話で怒鳴り込んで守ってくれるような頼もしい一面もありました。

そんな父も子供のような頑固さは、昭和の男。
タバコを吸い、食べ物の好き嫌いが激しくて、嫌いなものが出ても絶対に口にしない。
趣味の車に関しては、お給料と見合わなくても絶対に欲しいものを譲らない。

休みの日はドライブやゴルフにと精力的でした。

当時は、土曜日まで週6日働いて日祝日がお休みが主流。
家族でご飯は、夕食か日祝日のお休みの時のみ。

母がご飯を作りますが、帰宅が20時のためデパ地下の惣菜が食卓に並ぶことが多い家でした。
日曜日は、パンとコーヒー。
父が豆から煎るところから始まる本格的なものでした。

20年後にパンとコーヒーが私にとって消化しにくいものと知ることになりますが(笑)

とにかく平和でした。

病名が解ると父は宅配健康食を食べるようになりましたが、
薄味で口に合わず、しかも少量。
我慢できずに普段の食生活に戻ってしまうことが多かったのです。

そんな状態で父にも段々と異変が。

最初の段階は、怒りっぽく不機嫌が多くなる。
始まりは思い出せないのですが、とにかく不機嫌で怒りっぽい。
自分の言っていることが通らないとしかめっ面になることが多くなった。
当時、トラブルがあって身内と疎遠になっていた事もあり縁を切れと母に怒鳴ったこともありました。

一家の大黒柱的な存在でしたので、誰も口ごたえする人もおらず、その意見に従うしかありませんでした。
引っ越したばかりの我が家。
知っている人もそばに居なくてただ家の中が暗くなっていました。

次の段階はお皿を持てなくなる。
まだこの頃の父はいつも通り会社で働き、車でドライブに行くこともしていました。
しかし、犬がお皿に顔を突っ込むかの如く、父もお皿に顔を突っ込んで食べるようになりました。

お皿が持てなくなったとは言わず、そういう食べ方を繰り返す父を私は段々と一緒に食事をするのがイヤになっていました。

続く


色々な食べ物の都市伝説に流されて、卵が大好きだった母に制限を課してしまったことを卵を見るたびに思い出しています。

TVでやってたから、お医者様が言っていたから。
本人の意志をあまり聞かずにいたことを今でも思い出すたびにため息が出てしまいます。

5年前に受けたデトックスプログラムで出た結果で、世間で言われている食べ物の都市伝説と私の身体に合う合わない食べ物を知りました。

今思えば、海の側で育った人と山の側で育った人が食環境が同じでないことから見ても、食べ物の都市伝説が全ての人にとって当たり前ではないことなんて分かるはずなのに。

父の遺言、母にしてあげられなかったことは一生忘れないのだろうなと思っています。

もし2人の所に行ったら、真っ先にこのことを謝りたい。

でもまだその時ではないようなので、2人が残してくれたこの器(身体)を美しく大切に磨いていこうと思います。

こちらの記事で、私はワクワクするという言葉の意味がよく解らないと言うことを書きました。
私にはこの言葉に対してこういう認識があるからです。

ワクワク
→感情や気持ちを表す意味なので、明確にこれをやると言う『目標・目的』ではないこと。
→つまり人によって様々なので、感覚を言葉にするのが苦手な人間(つまり私)…
フワフワな依存体質の自覚のある私には『目標・目的』にたどり着けない。
→依存を散々した私→また依存してしまう可能性大。
となるので、
わっかんないっ!



思考がその先を考えるのを止めてしまう言葉のようだなと思うようになりました。

うん、それ大正解。

考えるだけ考えて動かない。
挙句の果てに人の意見に乗っかって、その人に依存する。
思い込みが解けない限り、このスパイラルパターンになるだけなのがオチです。

じゃあしばらくそれは保留しようと思っていたのですが、
あれ待てよ?
今年緊急事態宣言が発令されて、改めておうちのご飯に身体の健康を守るためにルールを作るという意識改革をしました。→を見てみてね。

手順を考えたり、材料を揃えたり切っていくうちに、
食材を口にして、
『この食材がこの先どんな形や味に変わっていくのかな』という思考。
なんだか楽しくなってきます。

あ、もしかして私の『ワクワク』ってこれかも…びっくり

料理を完成し、自分の頭の中にイメージがある状態と同じものを作り上げていくとなんだか身体の内側から満足感が広がる。

この感覚…。

絵を描いたり、ダンスを踊る時、タロットカードを読む時、コンサートに行く感覚と似ている(笑)。

言葉の図式にすると…

決めたら)やる→行動する。

これ以外の余計な気持ちが入ってこないものをやると言う事なのか!

と、とてもとてもスッキリとした感覚に。

特に絵や料理は形に残るものですので、この手で0からやり遂げた満足の感覚が出てきます。




そうか、これが私の『ワクワク』なのか!

40代にして、ようやく自分のワクワクに気づいた2021年秋なのでした(笑)。

2020年3月からinstagramにおうちごはん研究として記録しています。
もし宜しかったらご覧くださいね。

齋藤浩美instagram
https://www.instagram.com/saito_hiromi_insta/
以前書いたこの記事を読み返していて思っていたことがあります。

思い出を辿っていくと私は両親が好きだったということ。
40代で気持ち悪いと思われるかもしれません。
そして、もちろん居る時や介護をしている時は、こういう気持ちになることはありませんでした。

しかし、二人が他界してしまったことを年月を経て自覚すると、
・嫌な記憶よりも楽しかったなぁ
・しょうがないところもあったけど一緒に居てくれて助かったな
と思うことが増えてきました。

私の父は、子どもっぽくわがままで偏食家で浪費家で、車好き。
仕事に関しては昔気質の責任感のある人でした。
休みの度にドライブに連れて行ってくれたり、お給料が出るとケーキを買ってきてくれたり。
いじめに遭った時は、一番にいじめっ子の家族に対して怒ってくれたことがすごく嬉しかったことを覚えています。
病気がかなり進行していた時期に反抗期(19歳の頃)を迎えたので、その点が申し訳なかったと思ったのですが、女の子の親にする反抗期は、女性としての本能と言う事をあると最近知りました。(下記の参考記事参照くださいね)

生きているうちに反抗する姿を見せることができて、良かったのかもしれません(笑)。

母とは、20代以降は女友達のように過ごす事もできましたし、働いている時の人間関係の事も話せることができました。
介護では、本気のたたき合いのケンカもしましたし。

やはり家族って、良いこと悪いことを共有し合える仲間のような感じなのだなと書いていて思います。

家族って、半分血が繋がっている最初に出会う他人という事なのかもしれませんね。


参考記事
父親の悲劇