長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

二の字

2018年02月02日 02時00分22秒 | 落語だった
 雪が降るとめちゃくちゃ嬉しい。吸血鬼に魅入られた美女のようにふらふらと散歩に出かけた時の、まつげや頬にふうわりとまとわりつく氷の粒の感触と湿った空気の匂い、鼻の奥に迫ってくる一種独特なトンガリ感。心身共に重力に従う年回りになっちゃったのか、戌年の今年に在っても庭を駆け回らずに窓から幾たびも雪の降りっぷりを眺めていた私は、感触の記憶を反芻する楽しみに浸る。
 雪は降る、雪は降る…雪を冒して出かけなきゃならない方は、そりゃー皆さん不要不急じゃないに決まっている。
 今日は絶対、寄席で誰かが雪てんをかけるぞ…いや、かけるかなぁ…かけてほしいなぁ……てか、かけて!
 
 寄席の愉しみは、公共の放送にのせられないお噺を、即時性でもって聞くことである。
 世の中のニュースのどうにも納得できないこと、あんな悪人づれが大手を振って横行し、正直者たる弱者が泣きを見て、頼みになりそうな偉い人々はほっかむりして知らん顔して…正義の味方はもうどこにもいないのか。神も仏もないものか、黄門さまや大岡越前は今の世にはいないのか…誰かこの無法状態の現在を糾して糺して、正して…という、無力の民草が胸に抱えた青春の焦燥を、誰かが必ず高座で揶揄して代弁してくれた。
 しかも、今感じたこと、思ったことを今日只今、他人の口から聞けるのだ。共感できた時のジャストな快感。
 
 さてねぇ、そんな大がかりな社会の有態にかかることだけじゃなくて、些末な、天候気象のほんの小さな出来事やなんかの、世間話を聞く心の余裕が愉しいのである。もう久しく寄席に行けないけれど、今も雪の日に雪てんをかけてくれる落語家はいるのかなぁ…二の字二の字の下駄のあとって…お客さんも共感できなきゃ笑わないだろうから、21世紀ではどうなんだろう。
 演者自身もそんな体験がなきゃ自分の噺としては話せないもんなぁ…

 雪の日に、雪下駄をはいて出かけることの爽快さときたら! 積もった雪にサクサクっと歯が刺さって、推進力の凄いこと、陸上選手でなくとも駅までのタイムが幾分縮んでいるに違いないことの歓び。雨下駄より歯が薄いので、よく雪を噛んで一歩一歩が心強い。そんなわけで長年、天気の悪い日には下駄を愛好してきたのだった。
 それが、である。その爽快感までもが記憶の反芻でしか得られなくなってしまったのだ。

 …というのは一昨年の暮れ、歯に引いてある滑り止めのゴムが減ってきたので、雪下駄の歯を直してもらおうと履物屋さんに持っていったら、今はねぇ直せないんですょ、前は歯ごと交換してたりもしたんだけど、漆を塗れる職人もいなくなっちゃったから、すみませんねぇ…と、いろいろくふうして下さって、応急の手当てはしてもらえたのだが、そうなるとこの雪下駄が愛おしくて履き倒すわけにもいかず…さらば、雪下駄の日々よ……

 ビニールの爪皮が一体化した雨草履のダサい感じが嫌で(ごめんねアマゾーリ)、ずっと回避してきたのだけれど、昨春、名古屋の円頓寺商店街で、衝撃の価格でさりげない色合いの品のよい雨草履を手に入れたので、住めば都、履けば雨草履も雪草履、重宝している。

 そいえば、この間、久しぶりに拵えた眼鏡屋さんの眼鏡ケースは、ひどく不格好なものだった。サービスでつけてくれたのだから仕方ないが、そうか、昔の日本の、こうした身の回りのこまごまとした様々なものが、高品質であるのに廉価で手に入った常日頃というものが、改めて考えてみると、奇跡の世の中だったのだ、といまさら気がついた。それは、そうした物事を日常的に供給できる労働人口、人々の不断の努力、就労があってのことなのだった。
 現日本にはそうした技術を持つ人々がかろうじて絶滅せずに残っているのかもしれないが、もはや日常を彩るものではなく、そしてまた、それらを提供される人々は、一般の庶民ではなくなっているのだろう。

  …かくて雪の朝の、二の字の風物は滅びぬ。


 
 小学何年生だったか…お正月に雪が降って、叔母が駅前の洋品屋さん(後期昭和風に言えばブティック)で福袋を買って、可愛がられていた姪の私は、金色の環がぶら下がったイヤリングを頂いた。
 早速、ぅわーーーい、と言いながら耳に下げて、家の脇の雪の積もった道で、そのまま雪合戦に興じた。
 気がつくと、片方のイヤリングがなくなっていた。叔母の好意を無にしてしまった、しかももらった当日に…という罪悪感と自己嫌悪と反省の気持ちは、当時の概念、福袋の中身というものは、お店の売れ残りばっかりで要らないものしか入ってないからなぁ…という叔母の呟きに幾分和らげられたのだけれども。

 それから雪がほとんど溶けて、でも路肩には雪の塊がちょっと汚れた形で残っていた、一週間も経たぬうちの朝の登校時間のこと、家の脇の道をまっすぐ学校に向かって歩いていた私は、町内を曲がる手前の、アスファルトの舗装道路の上に、ピカリと光る金色の円い環っかを見つけた。
 驚くまいことか、先日の雪合戦の折紛失したイヤリングだったのである。おそらく先日の雪合戦古戦場から百メートルほども離れていただろう。
 雪には何かしら…茶目っ気というものが備わっているのではないかと思ったりもする。

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