スキルス胃がんだったとは!

夫がスキルス胃がんステージ4の告知を受けてからのこと

いってしまった人たちのこと

夫が告知を受けた一昨年、知人の紹介でまだ二十代のがん治療中の女性と知り合った。彼女が去年の暮れに亡くなったと聞いて夫と二人でご家族に会いにいった。三十代になったばかりだった。

 

告知直後、何か役に立つ情報はないかと片っ端からがんブログの梯子をしていた頃、何よりショックだったのは最新ブログに「家族のものです。この度」ではじまる知らせが綴られていることだった。がんブログを梯子するとこうした最終エントリーが続く。バタバタ人が死んでいく。がんだから死ぬのだ、そしてそのがんが我が家へやってきたのだという気持ちになる。 

 

人はいつか死ぬ。けれども普段わたしたちはそれはまだ先のこと、髪がすっかり白くなり、皺だらけの顔を鏡で見る頃だと思っている。平均値の出し方は知っていても、平均寿命とは大半の人がその年齢まで生きるという意味だと思っている。時ならぬ死は大きな衝撃をもたらすが、実際には「時ならぬ」わけではなく、想定外だっただけで想定自体が現実離れしていたことに気づかされる。人はいつでもどこでも死ぬ。この二年でゆっくりとそのことが身に染みてきたように思う。

 

告知を受けて数日だったころ、夫はかつての同僚を心不全で亡くした。翌年、夫と同じころ告知を受けた知人が二人亡くなっていたことを知った。小林麻央さんが亡くなり、最近では大杉漣さんがドラマの撮影中に亡くなった。名前を上げたらきりがないほど毎日、毎日人は亡くなる。おかしなもので、そのたび夫とわたしは以前よりショックを受ける。

 

ご遺族を訪ねた日、夫は静かに遺影に手を合わせ、黙って長いこと祭壇を見つめていた。祭壇には幼い頃から学生時代、成人式、最近のものまで数々の写真が飾られていた。花のような笑顔の愛らしいお嬢さん。「この子はあまりに愛らしいから神様が天使に召されたのだ」という一昔前の洋書の決まり文句が浮かぶ。告知から2年、あっという間のことだった。

 

標準医療と並行して食事療法や各種健康療法功に力を入れたが、途中功を奏さない化学療法の変更があった。辛く苦しく副作用ばかりの化学療法にうんざりした彼女はそれを拒否した。それから親子で生活習慣と食事や民間療法に励んだ。日常生活はずいぶん楽になり、家族は痛みと苦しみを軽減する方法を特定しつつあった。

 

「でも、入院後そういうことは病室ではほとんどできなくなってしまった」とご家族はいう。病室でできる民間療法は限られている。咽頭がんの伯父を看病していた母は、いまもそのことを悔やむ。

 

「かなり元気になっていたんです。ちゃんぽんを一杯食べたりしたこともあった」

という言葉が胸に迫った。「一杯しか食べられなかった」から「一杯も食べた」に変わる日々に覚えがある。腹鳴の激しさ、それに苦しむお嬢さんを見る辛さをご家族から聞く。夫がこのことをどう感じているか、不安になる。わたし自身も恐ろしい。

 

お嬢さんがまだ元気だったころ、ご家族にはうちで助けになっていたものを伝えてあった。お嬢さんは化学療法の常として起きる便秘に悩まされた。夫を間近で見ていて痛感するのは便秘が解消できるかどうかは毒素排出に大きく影響し、副作用の程度を左右するということだ。「でも、エネマは嫌だといって」とご家族はいった。「本人が望まないことにはどうすることもできませんよね」「そうなんです」よくわかる。

 

「何がいけなかったんだろうって考えてしまうんですけど」「娘は一度もつらい、苦しいと言わなかった。もっと気持ちをぶつけて吐き出させてあげられたらよかったのに」「本当に治ると信じていたみたいで」

 

夫はわたしには泣き言をいいまくるし、暴言暴論も吐くし、悲観的なこともいう。それにうんざりすることもある。「心をゆるしてくれてうれしい」なんて気持ちになれない日もある。いい加減に寝かせてくれ、静かにしてくれと苛立ち、ギャーギャー言い合うこともある。でも、人によっては我慢しているというわけではなく、とくに攻撃が自分にも他人にも向かわないこともある。それがご家族にとって心残りになることもあるのだと知った。

 

わたしと夫は対等な大人で、血の繋がりでいえば他人だけれど、お腹を痛めて生み育てたこんなにかわいらしいお嬢さんを、ただただ見守り見送るしかないという苦痛はどれほどだろう。お嬢さんに続く命を未来に思い描いてこられたであろうご家族の思いは想像するにあまりある。

 

「娘のために祈ってくれていたある方が、『この子のことはもう心配しなくていい。命を終えると同時にまっすぐに神様のところへいったから』とおっしゃったんです。『でも、私たちは?』って」ご家族は苦笑された。四十九日も待たないでいってしまったと言われたご家族の心境は複雑だ。

 

「今日は本当にどうもありがとうございました。ご主人、どうか元気になってくださいね。娘のために祈ってくださった方がいたように、私もご主人の回復を祈ります」

知人とご家族は夫を激励し、わたしたちの車に手を振って見送ってくれた。

 

長閑な田圃の上に広がる午後の空の下、車内の空気はなんともいえないものだった。ご遺族にお会いできてよかった。祭壇に向き合えてよかった。歓迎されてありがたかったし、お話から学ぶところは大きかった。けれども、お嬢さんの時ならぬ死をこれでよかったという気持ちにはどうしてもなれない。ただ現実を受け止めるしかない。いずれ訪れるわたしたちの死と別れについても。

 

「俺もあそこにあの人はおらんと思ったよ。もう、次のところへいってしまったんやろうなと思った」と夫はいった。「死んだあとに続きがあの人にあるなら、俺にも続きがあるやろうなと思えた」

 

「縁起でもない」といえなかった。わたしたちは死ぬことが当たり前の世界にやってきた。いつの間にか、何をするにも「もし近々死んだら」を省略して話すようになってきた。がんは奇妙な病気だ。ありふれていて、昔からあって、それなのに人を普通ではない世界に引きずり込む。