海底は砂でできている。
砂の下に岩があって、その下に空洞がある。
空洞の上には高圧の火山ガスがたまっていて、下には水とは違う液体が広がっている。
地底湖とか、地下水とか、呼ぶことはない。
それは、地中海という。
池とか、湖とか、川とか呼ぶには、あまり広い世界。
海底文明は、地中海世界の影響なしでは、生まれなかった。
地中海こそ、文明の源にして、交流の場だった。
火山に群生するネツウミユリは、となりの山のネツウミスミレを野蛮人と呼んだ。
オオカミクジラの乳を吸って育った双子の末裔は、やがて、地中海すべてへ広がった。
末裔たちが滅びたあとも、文明は離散して残り、あるものは栄え、あるものは、海底へ逃げ出した。
そして、ぼくらの海底の文明がある。
賢者カイロンが言った。
「君は最近、全然、寝ていないな。確かに、海底には昼も夜もない。だが、君はもとももと、太陽の光を知る者だ。もう、昼や夜のリズムはなくなったのか? 完全に海底人になったのか?」
ぼくはカイロンを見つめかえす。この男、地中海世界の生まれにつき、あらゆる古代の知恵に通じているのだ。
「最近、地中海が騒がしいのを感じるからね。寝ていられないって感じかな。ぼくだって、興奮すると、眠れなくなる」。
カイロンがうなづく。
「それなら、少しは寝たほうが良い。体質は昔と同じということだ。君にはまだ眠りが必要なんだ。地中海に歴史があれば、私が必ず知らせよう」。
ぼくは眠れもせぬのに、海綿のベッドに横たわってみる。
地下からの言葉。
横だおしになったメデューサイソギンチャク。
風穴をあけて海底に飛び出すタツマキヒュドラ。
ペアで逆に回り続けるプネウマアンモナイト。
あらゆる異形の生き物を描いた、高圧ガスの星座の神話。神話をつくりだした、知恵とイマジネーション。
高圧・高熱メタンの海を渡る、交易と文化。
暗闇の世界を絶えず揺らす、稲妻だけがフラッシュし続ける光る世界。
気がつくと、ぼくは眠っていた。目覚めたように自然に眠っていた。
夢とわかる現実の中で、カイロンの先祖が見える。
カイロンと違うのは、暗闇に適応した真白な肌と、完全に透明な角膜だけだ。
「およそ危険性のない文明というものはない」。
男が言う。
「われらの子孫の一部は、いずれ、この世界では飽き足らず、外の世界を求めて出ていくだろう。逆を言えば、みながみな、ここに、住み続けることはできないということだ」。
まわりの生き物たちがざわめく。
「そうすると、外の世界とはどこにあるのですか? 天の岩を砕いたり、海の粘液を潜ったりしていくのですか?」
「それは、わからぬ。だが、考えてみるがよい。われらの先祖は、火山のまわりに、ほそぼそと住んでいるだけだった。それが今や、この海のいたるところに、多数のコロニーがあるではないか」。
一同に緊張が走る。
「いずれ、この世界では、住む場所が足りなくなるか。それとも、この世界で奪い合いを避けてともに生きていけるか。それだけの問題なのだ」。
あるものは、かたずをのみ、あるものは納得顔をし、あるものはまったく分からないという雰囲気。
話は朗々と続いていく。
「受給調整は永遠のテーマだろう。信用は不信と同義であり、過信とも同義だからだよ。そこに、うねりはあっても、静寂はないのだ」。
地中海の古代資本主義の水準では、賢者の話は難しすぎるようだった。だが、地上人として過ごし、天上人として生き、今、海底に生きるぼくなら、その意味は分かる。
気がつくと、枕元に、ネクタリネとアンニナの姉妹がいた。ぼくと同じ、元天上人だ。
ぼくはてっきり、天上に連れ戻されたのかと思って、肝をつぶした。
「なにを、寝ぼけているのです。カイロンさまがお待ちです」。
あわてて家から飛びだすと、カイロンが望潜鏡を差し出した。
先端は海底に突き刺さっている。
望潜鏡の先に、地中海が見えた。
たしかに、新しい歴史が生まれているのが分かる。
地中海の岩の夜空に、新しく小さな穴がいくつも空いていた。
それを見て、住民たちが、新しい星座に、新しい神話と物語とを与えていた。
今までのものとは明らかに異質の星座は、「うまれ座」というものだった。