修士論文梗概〜四たび、国家が危機に臨むとき | 秀雄のブログ

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平成7(1995)年修士論文を大学院に提出しました。タイトルは「松陰的課題を背負ってー『出発』としての日本思想史」です。今回は恥を忍んでその論文の梗概を公開します。

 
(ここから)
 
「パンとサーカス」の時代にいかに生きるか。これが本稿のテーマである。現代日本における外見上の繁栄と精神上の頽廃は、古代ローマのそれに酷似している。「日本」という国は、今まさに亡びんとしているのである。それは外圧や戦争といった外部の力によってではない。倫理的没落の象徴である知識人と、それに追随する日本国民そのもの、といった内部の力、A・トインビーの言葉を借りれば、「内的プロレタリアート」によって、である。
 
「55年体制」の終わり、「米・ソ冷戦構造」の終わり、「20世紀」の終わり、といった三つの終わりに直面している我々は、今こそこの国が、どこから来てどこへ行こうとしているのか、をはっきり見極める必要がある。
 
そのように時代の要請にこたえうる「日本思想史」がこれまで存在したであろうか。我々は自分の物語を持ち得ただろうか。甚だ疑わしい。本稿は、これまでの「日本思想史」の懐疑からはじまっている。結論的に言えば、戦後思想史は超克しなければならないということである。「思想史」は「思想」がなければ存在しない。それは我々の生き方に関わることなのである。「思想とは何なのか」「日本とは何なのか」「近代とは何なのか」そういった根源的な問いを追求していった果てに仄見えてくるもの、それは自分自身の姿なのである。「自分とは何か」。日本思想史の、いや学問そのものの目的がそこにはある。
 
本稿では、その対象として、吉田松陰をとりあげる。松陰が日本近代の幕開けに背負わざるを得なかった精神的課題は、我々の課題なのである。明治以降の日本の近代を否定しようとしているのではない。我々は近代の歴史的宿命の中で生きていくより仕方がないのである。そのための自己反省といってもいい。松陰を「志士」たらしめていたものは何であろうか。それは人間という動物に、人間を演じさせるものである。体系や分析や技術ではない。言葉である。表現である。
 
本稿は、日本思想論である。松陰の分析ではない。したがって強いイデオロギー性を感じていただけたらば、それで成功としなければならない。人間の生命に活力を与えていくもの、それはイデオロギーの持つ、爆発力に他ならないからである。
 
(ここまで)
 
当時私は26歳。若さ故の気負いと「イデオロギー」などという大仰な、今から考えると笑ってしまうような言葉も混じっているが、根本のところは、二十数年経た今もぶれていないと思う。
 
たとえ北朝鮮が日本を滅ぼすことがあったとしても、後世の歴史家はこう評するであろう。
 
日本は北朝鮮の核ミサイルによって滅んだのではない、70年以上も「パン」という物質的豊かさと、「サーカス」という娯楽にしか関心を持たず、惰眠をむさぼり国防を考えてこなかった戦後日本人によって滅んだのだ、と。