平成30年、明けましておめでとうございます。
今年は戌年です。株式投資の世界では、「戌笑う」という格言があって、戌の年には株式相場が上昇することが多いのだそうです。そうなれば景気もよくなって、投資家だけでなく、多くの人が笑顔になるかもしれません。
お金がたまって笑顔になる、それは喜ばしいことです。しかし、お金がたまらなければ、笑顔になれないわけではありません。私たちには心をためる笑顔というものがあります。
 昨年5月の朝礼で「無財の七施」の話をしました。お金や物ではなく、心で表す七つのお布施です。その中に「和顔施(わがんせ)」というお布施がありました。
 あるベトナムからの留学生が、コンビニでアルバイトをしていて、優しいと思っていた日本人のイメージが変わってしまったと言います。レジ待ちの列ができると、1分も経たないうちにイライラしている気持ちが伝わってくる。お客さんの声が聞こえなくて聞き返したら、そのお客さんからひどく怒られた。虫の居所が悪かったのかもしれませんが、この不寛容な怒りの背景には、多かれ少なかれ、お客さんの中の「自分はお客様だ」、「お金を払っているんだ」といった自己中心のエゴがあります。そして、こうした態度は、留学生に悲しい思いをさせただけでなく、おそらく他のお客さんをも嫌な気持ちにさせたのではないかと思います。
 身勝手なエゴで不機嫌な態度をとれば、周りの人は不愉快になります。そして、その不愉快を理不尽にも我慢しなければなりません。だから、ドイツの哲学者ニーチェは、「不機嫌は怠惰である」とまで言っています。しかし、和やかで穏やかな笑顔は、人を幸せな気持ちにします。そればかりでなく、自分の心も明るくなっていきます。
 以前にも話をしたことがあると思いますが、お店の人を笑顔にすることを心がけているという女子高校生がいました。店員さんに必要以上に横柄な態度をとるお客さんを見かけることがある、しかし、店員さんがサービスをしてくれるなら、客の自分たちも笑顔でそれに応えるべきだ、店員さんと人として対等な関係を築きたいのだと彼女は言います。店員さんはお客さんに感謝をし、お客さんは店員さんに感謝をする。それをお互いに笑顔という形で表す。
 お金は遣えば減ります。しかし、心はお金と違って、遣うことでたまります。笑顔、あるいは愛語……、相手を思いやる心遣いは、相手や周囲、そして自分の心をためる力があります。
 まもなくすると来年度の新入生を迎えるための入学試験があります。受験生の保護者の方々とお話をしていると、毎年、オープンキャンパスで、あるいは獅子児祭で、在校生の君たちに優しく接してもらってと、感謝の言葉をいただきます。君たちにもそういう力があるのです。
 善因善果、善い原因をつくれば善い結果につながり、悪因悪果、悪い原因をつくれば悪い結果につながります。身勝手なエゴで不機嫌、不寛容な、思いやりのない態度をとれば、それは悪い原因となります。しかし、人を思いやる笑顔や愛語は善い原因となります。
 平成30年、自らの脚下を照顧しながら、悪い原因ではなく、「あー、善いことができた」と喜べる、より多くの善い原因をつくる、その実践を重ねてほしいと思っています。
 最後に、6年生はいよいよ大学入試の本番がスタートします。大きな試練ではありますが、「明日」をあきらめず、「今、ここ」を見失わずに挑み続ける限り、ギリギリまで力は伸ばせます。合格という結果の原因となるのはひたすらな努力の積み重ねです。君たちの健闘を切に願っています。(始業式でのお話から)

ただ今、両祖様のご命日である両祖忌と、達磨大師のご命日である達磨忌の法要を合わせて営みました。

 両祖様とは、大本山永平寺をお開きになった道元禅師と、道元禅師から数えて4代目、大本山總持寺をお開きになった瑩山禅師のお二方のことです。この修道館のご本尊は一仏両祖といって、中央にお釈迦様、君たちから見て右側に道元禅師、左側に瑩山禅師の像をお祀りしています。

 道元禅師は、建長5年、1253年、陰暦の8月28日に54歳でお亡くなりになり、瑩山禅師は正中2年、1325年、陰暦の8月15日に62歳でお亡くなりになりました。しかし、お二方のご命日を陽暦に換算すると、奇しくも同じ9月29日となります。そこで、この日を両祖忌としています。
 一方、達磨大師は5、6世紀の頃の方で、南インドの香至国という国の第三王子であったということですが、出家をして般若多羅尊者という方について坐禅修行に励み、相当高齢になってから中国に禅を伝えられました。そこで、中国禅宗の初代の祖ということで、震旦初祖とお呼びすることもあります。震旦とは中国の異称、別名です。亡くなられた年は定かではありませんが、ご命日は10月5日とされていて、この日を達磨忌としています。
 達磨大師と言えば、面壁九年ということがよく知られています。中国に到着した達磨大師は、梁の武帝に招かれて問答を交わしますが、機縁かなわず、武帝のもとを去ります。そして、揚子江を渡って少林寺に至り、壁に向かって九年間坐禅を続けて、慧可大師という法を伝えるべきお弟子を得たと伝えられています。
 達磨大師がインドから中国に伝えた禅は、その後、大きく発展して(五つの家に七つの宗と書いて)五家七宗(ごけひちしゅう)を形成します。13世紀になると、道元禅師が中国に渡って、そのうちの一つ、曹洞宗の如浄禅師について修行大悟して、その教えを日本に伝え、さらに瑩山禅師がそれを日本全国に広める基礎を築きました。そして、1学期の終業式でも話したように、今や禅は世界にも広がりを見せて、坐禅に親しむ人が増えています。
 曹洞宗の系譜に連なる世田谷学園では、その坐禅を体験することができます。早朝坐禅会には、毎週100人を越える生徒諸君が参加してくれています。以前、ある新聞社から早朝坐禅の取材を受けたことがあります。そのとき、坐禅が終わって退堂する一人の生徒が「坐禅をするとどんな感じになりますか?」という質問を受けました。彼の答は「スッキリします」ということでした。「スッキリする」、簡単ではあるけれども、私は的を射た言葉だと思います。
 私たちは日常の中で、静かに自己を見つめるという時間をなかなか持てません。そのために、貪り、不平や不満、妬みや怒り、思いこみ等々、さまざまな「オレが、オレが」の「我」、自己中心の「我」にとらわれていることも少なくありません。それは、心の中にゴミをためるようなものです。それが原因で、他人も自分も苦しむことがあります。例えば、ひとたび「アイツが気にくわない」と思えば、人には誰でも長所と短所があるのに、「気にくわない」という表面的な気持ちにとらわれて、そしてそれを正当化するために、相手の短所ばかりを探し出そうとしてしまいます。「とらわれる」というのは、受動的、無意識的です。だから、とらわれというゴミになかなか気づくことができません。だから、恐いのです。
 しかし、静かに坐って誠実に自己の心を見つめてみれば、そこにあるゴミの多いことにも気づきます。いらないゴミは捨ててしまうのが一番です。「今、ここ」の姿勢、「今、ここ」の呼吸に心を遣う、そのことに集中する。そうすれば、ゴミは自然と消えていきます。とらわれが手放されて、自ずとスッキリしていきます。それは人生を幸せに生きていく上で、大切な時間となります。
 君たちには、早朝坐禅だけでなく、「生き方」の授業、12月の臘八摂心、坐る機会が多々あります。坐禅は実参、実究です。坐ってみる、坐り続けてみる。そして、スッキリとした心を、育んでほしいと思っています。(両祖忌・達磨忌のお話から)

演台の上に、たくさんのトロフィーや楯があります。賞状伝達は後ほど行いますが、夏期休暇中のそれぞれの活躍を、うれしく思っています。
 1学期の終業式で、全国大会に出場する中高の空手道部の壮行会を行いました。その結果ですが、高校生は個人組み手で1名、個人形で2名がインターハイに出場し、個人形で6F増田君が5位入賞を果たしています。中学生は、団体形で全国中学生空手道選手権大会に出場しました。初戦で敗れはしましたが、優勝候補のチームを相手に2対3という僅差でした。全国大会という大舞台を経験して、そこで心が感じたことを、これから成長していくための財産とする工夫をしてほしいと思っています。
 さて、「因果応報」という言葉があります。「因」とは原因のこと、それに「縁」と呼ばれる様々な条件が作用して、「果」、すなわち結果が生じます。よくない結果が生じたときに「因果応報だから」と言って、悪い意味で使われることの方が多く見受けられますが、本来は、「善因善果」──善い原因が善い結果を生み、「悪因悪果」──悪い原因が悪い結果を生むという両方の意味が含まれています。
 京セラやKDDIを創業し、JALを再生させたことでも知られる稲盛和夫さんは、「善き思いを抱き、善きことを実行すれば人生はよい方向に変わっていくし、悪い思いを抱き、悪いことを実行すれば人生は悪い方向に変わっていく。もともと持っていた運命がどうであれ、それは変わっていくものであり、運命は決して宿命ではないのだ」と言われています。
 まず、善き思いを抱く。「何が何でもこうありたい」と強く抱く。その思いを持続させる。それが人生をよい方向へと変えていく「因」の大本です。そして、思いに基づいて善きことを実行していくことで、心が磨かれて、一人ひとりがもつかけがえのない価値が光を放ちます。
 ところが、はじめは強く思いを抱いていても、時が経つと薄らいでしまうことは少なくなりません。したがって、折りに触れて思いを抱き直すことが必要になります。
 昨日で夏期休暇が終わって、今日から2学期が始まります。一年の間には、学期が変わったり、年が改まったり、時の流れが用意してくれた、いくつもの「節目」があります。それは、思いを抱き直す絶好のチャンスです。
 竹は節があるから、しなやかで強いと言われます。竹の節は硬くて強く、ノコギリで切るのも容易ではありません。しかも、節それぞれに成長点があって、だから竹の成長は速いのだと言います。人も同じです。節目あっての「やる気」、「再起」であり、節目あっての「成長」です。
 2学期の始まりという節目は、誰にでも同じようにやってきています。その折角の節目を生かせるかどうか、それは自分次第です。「あ~あ」ではなく、「よーし」という気持ちで、善き思いを抱き直して、この2学期の始まりを強い強い節目としてください。
 最後にもう一点、3期制になって、今月は17日、18日に獅子児祭が開催されます。当日は、多くのお客様がわざわざ来場してくださいます。そのお陰様で、君たちも充実感、達成感を味わうことができます。君たちが放つ光を十二分に感じていただけるように、一人ひとりが主人公として、善き思いを抱いて、善き準備を進めてほしいと思っています。(始業式でのお話から)