言葉の散歩 【歌舞伎・能・クラシック等を巡って】

日本の伝統芸能や音楽を中心に、感じたことを書かせていただきます。

佐渡と能(1)   

2017年04月03日 | 歌舞伎・能など

佐渡と言われて、皆さまは何を思い浮かべますか。
金山、トキ、美しい海辺の景色、マラソン、海の幸、穏やかな気候…。
私は、それに加えて「能舞台」を挙げたいと思います。
残念ながらまだその場でお能を観たことはありませんが、二度ほど佐渡を訪ね、いくつかの能舞台を見てきました。

これは竹田にある大膳神社の能舞台です。茅葺きの屋根が周りの風景に溶け込んで、とても味わいがあります。

     

鏡板(松の描かれた背景)に太陽が描かれているのが特徴です。

     

  
佐渡では4月から10月にかけて各所で薪能が行われます。
大膳神社でも、今年は4月18日に催されるようです。

現在島内には30以上の能舞台があります。(江戸時代には200以上もありました。)
また「佐渡の人は誰でも謡を口ずさめる」とさえ言われるほど、日常の中に能があります。
師範の方の熱意ある指導と様々な方の協力により、小学生や中学生も謡や仕舞に取り組んでいるそうです。

何故ここで能がこんなに盛んになったのでしょうか。

佐渡は、室町時代に世阿弥が配流された地ではありますが、能への関わりが強くなったのは、慶長6(1601)年ここに金山が発見されたことに端を発します。

     

金山が見つかったことによって、佐渡は徳川の直轄地になりました。
慶長9(1604)年佐渡奉行として大久保長安が着任します。
その際長安は、観世流のシテ方(主役や地謡を担当する能楽師。常太夫、杢太夫の二名の名前が残っている。)、囃子方、ワキ方(脇役専門の能楽師)、狂言方を伴って島にやって来ました。
つまりその場で能を演じることが可能なメンバーが揃ったのです。
これ以降、首府となった相川の地で観世流の能が催されるようになり、相川周辺の人々に能が広まったと言われています。

けれども佐渡全体に能が行き渡るには、さらなるきっかけと時間が必要でした。
やがて常太夫、杢太夫による観世座がなくなってしまいます。
そして慶安4(1651)年本間秀信が佐渡奉行から能太夫(この場合、佐渡における能の宗家)を任じられ、宝生流による座(演能のための役者の集団)が生まれました。
ここで宝生流の指導を受けた人々が、島内各地の村々で、祭礼の神事として能を行うようになり、佐渡全体に能が普及したと考えられているのです。

現在も使われている本間家能舞台です。

     

*本間家18代目本間英孝さんは、宝生流の能楽師として活躍するとともに、佐渡の能の中心として指導、演能に当たり、重要な役割を担っていらっしゃいました。
けれども今年一月、83歳で亡くなられたそうです。
ご冥福をお祈りいたします。

     



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