兵庫県の三田市~三木市の観光をした先日。
三木鉄道記念公園の見学を終えた後は三木城を目指しました。
三木鉄道ふれあい館は神戸電鉄粟生(あお)線の三木駅から歩いて15分弱のところにありましたが、三木城は隣駅の三木上の丸駅から徒歩約3分です。
ですが前回も書いたように、粟生線のこの辺りのダイヤは1時間に1本。
検索したところ10数分前に出たばかり・・・バスもありましたが同様に便が少なく。
となったら歩くしかありません。
ブチブチ文句を言っていましたが、電車が来るわけでもないので歩きます
道がわかっていたら16、7分で着くと思いますが、検索しながらなので20分ちょっと掛かりました。
途中人に出会ったのは3人だけ。
またお城近くのナメラ(どんな意味なのかしら・・・)商店街と言うところを通ったのですが、見事に1軒たりとも営業をしていなく、全てシャッターが下りていました。。。
三木合戦(三木の干殺し)で知られる、三木城跡に着きました。
三木市立金物資料館もありました。
村のかじやの歌碑があり、人が前を通ったら音楽が流れると書かれていましたが、流れませんでした。。。
月曜日で記念館は休館日。
鳥居が錆びてちょっと寂しい、稲荷神社。
三木城は別所長冶の居城として知られています。
羽柴秀吉による兵糧攻め、いわゆる三木合戦(三木の干殺し)の舞台になったことでも有名です。
小寺氏の御着城、三木氏の英賀城と並び播磨三大城と称されたほどの堅城でしたが、1年10ヶ月におよぶ籠城戦の末に敗れました。
現在は本丸跡周辺が上の丸公園として残っており、公園内には長治の騎馬像や城外への抜け穴があったと伝わるかんかん井戸があるそうです。
なお、近年の調査で羽柴秀吉が築いた付城群や土塁が見つかっているそうです。
別所長春公像
別所長治公像の馬の足の奥にチラッと写っているのは、ボロボロになった顔出しパネル。
放置されているのがなんとも哀愁を誘いました。。。
別所長春公辞世の句
「今はただ 恨みもあらじ 諸人の 命に代はる 我が身と思えば」
1578年、信長から中国侵攻を任された秀吉が三木城攻めを開始。
そこで三木城の城主・別所長治ははじめ信長に仕える素振りを見せますが、信長への反感から結局は、毛利側に味方し叛旗を翻すことになります。
それをみて、秀吉は三木城攻めを本格化することになります。
とはいえ三木城は天然の川を掘とする要塞で、簡単には落ちない。
ならばと、兵糧攻めを決行。
季節が冬へとかわる頃には餓死者や凍死者が増え続けていき、後に「三木の干殺し」といわれる悲惨な状態となっていきます。
そこで長治は自らの命と引き換えに籠城兵たちは助けてくれと願い出ましたが、その申し入れを秀吉が受け入れたことにより、別所長治は3歳の我が子を刺し殺し、妻の自害を見届けた上で切腹となんとも痛ましい最期を遂げたそうです。
三木城跡には模擬城壁が再建されています。
こちらは本丸井戸(カンカン井戸)。
粟生線の線路が裏手から見えました。
電車が走るところを撮影したかったですが、待っていたら次の電車までさらに1時間待たないと行けません
と言うことで、頃合いをみて三木上の丸駅に向かいました。
なんとものどかな駅舎でした。
ここから乗車したのは私達以外にも2人いましたよ。
次の電車まで20分近くあったのですが、暑くて歩くのも疲れたので駅にいました。
コンビニも無いので(甘栗を使ったスイーツやさんが1軒だけありました)、クーラーにも当たれず、暑かった