台中において、フォトジェニック・インスタ映えと話題で、かねてから気になってた彩虹眷村へ行ってまいりました❣️
第2次世界大戦後、1949年から1960年代にかけ、国共内戦で大陸を失った国民政府が台湾に進駐、中華民国国軍(蒋介石率いる国民党軍)とその家族60万名の台湾への移住が行なわれた際、その人たちが暮らす住宅が必要となりました。官僚、軍人(陸軍、海軍)一般公務員、教師、地域と5種類にわけて、台湾各地に集合住宅を建設。その際既存の集落と区別されてこの名称が使用されたそうです。
多くは新しく都市の郊外に建てられたもので、小さな急ごしらえの平屋のような建物が集合した場所です。この住宅、外省人とその配偶者、直系の子孫が住む権利を有しますが、土地は国防部(国)のものなのです。
老朽化し、衛生面でも問題があり、住人も減少し、治安が悪くったという理由で、20年数前から多くは取り壊され、国宅(国の補助により建てられた低価格マンション)などに建て替えられたり、公園になったりしています。そして彩虹眷村もかつてはその対象だったそうです…!(◎_◎;)
彩虹眷村の正式名称は干城六村。
2008年8月、一人の住民が家屋の壁面にカラフルな絵を描き始めます。
その住民こそ「黄じいさん(黄伯伯)」こと黄永阜さん。
すでに90歳を超えた黄じいさんは、香港九龍出身。若いころ、国民党軍に志願し、台湾へとやってきました。高雄、屏東で暮らした後、台中の春安社区のこの眷村に落ち着きました。
眷村は独身で年老いた老兵が多く、黄じいさんも91歳まで独身だったそう。(今94歳だそうなので、3年前に結婚したということ⁉️)
住宅も決して立派ではなく、若い人は、この眷村を嫌い、外の世界へと出て行きました。
黄じいさんの暮らすこの眷村も同じく、住む人も減り、現在では3家族(うち、1家族のみ複数人、黄じいさんともう一人は一人暮らし)になり、台中市の再開発区になり、まもなく取り壊されるという運命だったのです。
そんな再開発計画の話がでていた2008年のある日、黄じいさんは、突然、ペンキで家の前の灰色のコンクリート壁に絵を描き始めたのです。なぜ描いたの?と聞くと、「退屈だったから。」と答える黄じいさん。絵を描くことを習ったわけでもないので、思いついた絵柄をそのまま描き続けていったそうです。人物、水牛、小鳥に飛行機、はたまたそのころ台北の動物園へやってきたパンダの「圑圑」と「圓圓」も。絵のほかにはおめでたい言葉や風刺も。
絵の範囲はどんどん拡がっていき、やがて路面も含めた付近一帯が絵で埋め尽くされました。
この絵が評判となり、評判をきいた人々がやってきてブログやフェイスブックで発表。この眷村が再開発計画により、取り壊されると知った彼らは「虹の村を救おう」と、ネットで呼びかけ、台中市の市長へ大量のメールが届けられたそう。
芸術を愛する当時の台中市長であった胡志強さんが2010年9月に自らここを訪問。黄じいさんの描いた絵で色彩豊かになった眷村に感動。直接話しを聞き、ここを再開発計画から外し、台中市の特徴ある公園として残そうと約束してくれ、文化公園として保存されることが決まりました。
周渝民主演の映画「愛你一萬年」のロケ地としても知られ、今やテレビ番組や雑誌でも数多く取り上げられている有名地なのです。
さてそんな彩虹眷村、
私はツアーで来ましたが、
台中市内より高鉄台中駅からの方が近いので、高鉄で来られる方は駅からすぐタクシーで来ちゃうのがよいかも。
さっそく入ってみます。
この辺りは初期の絵らしくて、
まだ慣れてない感じ⁇
入ってまもなくして
暑くてゆっくり選んでる間もなく、買ってないですけれども、
それよりなにより、
じいちゃん、イター
♪───O(≧∇≦)O────♪
嬉しくて嬉しくて、あと舞い上がってしまったわけですよ。
念願のツーショットも❤︎
おじいちゃん、かわゆーい(*≧艸≦)
写真撮らせてもらったあとは、10圓のチップを忘れずに⤴︎
この2ショットのあと、とにかく暑くてもう必死ww
なんだかわからず、とにかくやみくもにシャッターを切ってみてました。
壁という壁、地面の隅々まで見事なアート。
絵を描くことを習ったわけでもないので、思いついた絵柄をそのまま描き続けていったそうですよ。
台北ナビをみてもう少し絵の由来とか調べときゃよかったかなとも思わなくもないのですが、おじいちゃんにお会いできただけで満足なわたし笑
こんな遊び心あるグッズも道端に置いてありました。
今回はツアーで連れてきてもらったのですが、
台中市内より高鉄台中駅からの方が近いので、高鉄台中駅からタクシーで行くのがよいのかな。
台北からも、日帰り圏内なので、ぜひ行かれてみて下さい❣️