文献解釈上、邪馬台国畿内説が成立しない決定的な理由〈2〉 | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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邪馬台国熊本説にもとづく邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、まったく新しい紀年法による日本書紀研究について
ぼちぼちと綴っていきたいと思います。

 前回みたように、「ぐるっと一周」という意味に解釈され、任意の地域を囲ってそこが倭地だという論争を生んでいる原因は、「周旋」という単語にあります。

 実はこの「周旋」の解釈にとんでもない誤りがあったのです。

 私は『邪馬台国は熊本にあった!』(扶桑社新書)の中で、「周旋」について再検討を試みました。

 『三国志』全体では23カ所に「周旋」が用いられていました。「魏志倭人伝」で使用されている以外の22カ所すべてを調べた結果、「ぐるっと一周する」という意味で用いられているところは一カ所もありませんでした。

 ただ、呉書に次のような少しまぎらわしい個所があります。この記事と次のような訳があるために、現代まで「ぐるっと一周する」という解釈が生き残ってきたのかもしれません。

 

丹楊地勢険阻 與呉郡 會稽 新都 鄱陽 四郡鄰接 周旋数千里 山谷萬重

〈丹楊郡は地勢険阻で呉郡・会稽・新都・鄱陽の四郡と隣接しており、その周囲は数千里の距離があって山や谿谷が十重二十重にいりくんでいる。〉『正史 三国志〈8〉呉書Ⅲ』(小南一郎訳/ちくま学芸文庫)

 

 多くの人が参考にする『正史 三国志』(ちくま学芸文庫)でも「その周囲は数千里」となっていて、一周するイメージで訳されています。しかし、地図で確認してみると、丹楊郡は必ずしも呉郡・会稽郡・新都郡・鄱陽郡の四郡のみと接しているわけではないのです(図)。

 
◆図 丹楊郡と四郡の位置関係

 

 

 これら四郡は丹楊郡の東側から南側に至る山地で接していた郡です(本図では会稽郡とは接していませんが)。丹楊郡の北から西にかけては長江が流れていて、それを挟んで広陵郡や盧江郡など他の郡とも接していました。

 だから、この記述の対象は地勢が険阻な山地側に限ったものであり、その山地で丹楊郡が四つの郡と接している様子を表したものであると考えられるのです。つまり、「丹楊郡と隣接する四郡との境界が、数千里にわたって山や谷が幾重にも重なっている」と述べたものだったのです。

 丹楊郡の東西南北すべての境界線におよぶ記述ではないので、この数千里がぐるっと一周という「閉じた円」になることはありません。四郡との境界である入り組んだ山や谷を巡っていく、曲がりくねった「一本の線」になるのです。

 

 検証の結果、『三国志』の中では「周旋」は主に「めぐり歩く」「転々とする」という意味で用いられています。重ねて言いますが、「ぐるっと一周する」という意味で用いられている個所は一つもありません。

 だから、「周旋可五千余里」を「一周すると五千余里ばかり」と読んではいけないのです。従来からの訳は間違っていたことになります。

 では、「周旋」を正しく「めぐり歩く」という曲がりくねった一本の線のイメージで解釈するとどうなるでしょうか。

 「魏志倭人伝」に語られる「参問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千余里」は次のように訳されることになります。

 

倭の地を訪ね歩くと、遠く離れた海の中の州島の上にあり、あるいは海で隔てられたり、あるいは陸続きであった。めぐり歩いた距離は五千余里ばかりであった。

 

 つまり、倭地の訪問で五千余里をめぐり歩いた、と記しているのです。実に単純明快な記述です。(続く)

 

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『三国志』全編の訳本。8巻セットで少し高額ですが…。

 

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拙著『邪馬台国は熊本にあった!』(扶桑社新書)