前記事では、危機回避という点から唐津上陸を考えました。
今回は、私が「リスクの最小化」よりも強く、唐津上陸の要因となったと考える「倭地の調査・報告」という視点から考えてみます。
梯儁(ていしゅん)一行の使命が、皇帝の下賜品を卑弥呼に届けることだったのは、疑いようがありません。しかし、私は、梯儁一行にはもう一つの使命があったと考えています。
それが、倭地の調査および報告です。
公孫氏が遼東、楽浪、帯方の一帯を支配している間は、魏と倭の直接の交渉は断たれていたと考えられています。つまり、魏は倭についての最新情報を持っていなかったのです。その倭が、公孫氏滅亡と同時に朝貢してきたわけです。
当然、速やかに倭が現在どのような国になっているのかを調査する必要が生じます。なぜなら、魏に反旗を翻す可能性のある国なら、早急に対策を講じなければならないからです。だから、梯儁一行には下賜品を届けると同時に、倭の地の調査が命じられたはずです。
では、その調査報告書の必須項目は何でしょう。
(1)帯方郡から邪馬台国(倭の都)への行程および経由国
(2)各国の人口、地勢、習俗
(3)王(女王)の性質
(4)倭の統治体制
(5)倭地の気候、産物等の地誌
(6)その他、有益な伝聞情報
などが考えられますし、それらは「魏志倭人伝」に記されています。
私は、それに加えて、もうひとつ重要な項目があったのではないかと考えています。それは、
(7)地図
です。
なぜ地図なのか?
それは、地図が国々の位置関係やそれを繋ぐ道を第三者へ明確に伝える最適な方法だからです。
報告書は、その目的である倭地の国々の絶対的・相対的な位置を明示しなければなりません。さらに、次回以降の郡使が迷うことなく女王の都がある邪馬台国へたどり着けるように、再現性のある行程を書き残さなくてはなりませんでした。そのためには地図が必須なのです。
文章のみで国々の位置を明確に言い表すのは至難の業です。それは、現代の私たちが「魏志倭人伝」の記述から、国々の位置を比定しきれていないことからも明らかです。末盧国(まつらこく)、伊都国(いとこく)、奴国(なこく)、不彌国(ふみこく)など、九州島上陸地に近い国でさえも多くの異論が呈せられているのが現状です。
また、私が報告書に付された地図の存在を信じるのには、「魏志倭人伝」の行程記述の簡潔さがあります。あまりにも簡潔すぎるのです。末盧国から伊都国への「東南陸行五百里到伊都国」、伊都国から奴国への「東南至奴国百里」、奴国から不彌国への「東行至不彌国百里」、不彌国から投馬国(とうまこく)への「南至投馬国水行二十日」、そして投馬国から邪馬台国への「南至邪馬台国(中略)水行十日陸行一月」です。
当時は、整備された真っ直ぐな道や河川はありませんでした。しかし、行程記述に記された方角は一つのみです。途中で方向を変えるなどの記述は一切ありません。だから、それを補完する意味でも、地図がセットになっていたのではないかと考えるのです。
例えば、図1のような地図があればどうでしょう。(これは、私が適当に描いたもので、考古学的な考証などは一切なされていないことをお断りしておきます)
◇図1 報告書に添付された地図例(末盧国から伊都国編)
この地図は、魏側から主体を手前(下)に、進行方向(倭側)を上に描いたので、上が南になっています。つまり、下が玄界灘、上が九州島の陸地です。
このような地図が報告書に付いていたとしたら、報告書本文で「東南陸行五百里到伊都国」と記すだけで事足ります。
地図を見れば、末盧国から「東南」へ「陸行」を始めれば、道は東に向きを変え、川を渡り、道は山地に入って行き、北側へ峠を越えていけば、「五百里」で「伊都国」に着くことが、明確に伝わるからです。(続く)
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拙著『邪馬台国は熊本にあった!』(扶桑社新書)