弥生時代中期の播磨地方における中心集落〈新宮宮内遺跡〉 | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、まったく新しい紀年復元法による日本書紀研究についてぼちぼちと綴っています。

 帰郷した際に「新宮宮内遺跡(しんぐうみやうちいせき)」を見学してきました。

 新宮宮内遺跡は、兵庫県たつの市新宮町にある弥生時代の集落遺跡で、国指定の史跡になっています。

 遺跡のある播磨地域は、吉備や河内などに比べるとなじみがないかもしれませんが、瀬戸内海の航路と、出雲と畿内をつなぐ陸路が交わる交通の要衝です。讃岐地方との交流も密だったと考えられ、弥生時代に重要な役割を果たした地域です。

 

 

「新宮宮内遺跡は、揖保川(いぼがわ)中流域西岸の沖積平野に位置する縄文時代後期から中世までの大規模な集落遺跡で、今から約2,100年前の弥生時代中期に最盛期を迎えます。昭和40年以降に行われた数多くの発掘調査により、大規模な多数の区画溝とともに、竪穴(たてあな)住居跡・堀立柱建物(ほったてばしらたてもの)跡や当時としては国内最大級の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)のほか方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)・土壙墓(どこうぼ)群等の遺構が良好に遺存していることが明らかになりました。また、数多くの土器・石器とともに分銅形土製品(ふんどうかたどせいひん)が21点(県下最多)も出土しています。新宮宮内遺跡は、弥生時代中期の播磨地方における中心的な集落で、当地域の弥生時代の集落のあり方を示す大変貴重な遺跡です。」(遺跡説明看板より)

 

 史跡公園として整備されていて、土葺きの竪穴住居や直径約13メートルの円形周溝墓などが復元されています。

 

 

【土葺竪穴住居】茅葺き屋根の上に土を乗せたと考えられています。

 

 

【円形周溝墓】新宮宮内遺跡では、この円形周溝墓とともに7基の方形周溝墓が見つかっています。播磨地方は方形周溝墓のほぼ西限とされ、円形周溝墓との共存が認められる地域です。

 

 遺跡からは多くの土壙墓(木棺墓)が発見されていて、復元されている墓の木棺内からは19本の石鏃が見つかりました。それは遺体に刺さっていたと考えられています。また、方形周溝墓のひとつからも石鏃12点と石剣と思われる破片1点が見つかっています。これらは戦闘で死んだ弥生戦士の墓という意見が出されていますが、多数の石鏃が撃ち込まれる状況は異常であるとして、人身御供のような犠牲死とする見方もあるようです。

 

【復元された土壙墓】19の石鏃は何を意味するのでしょうか。

 

 新宮宮内遺跡では北部を8条の溝が東西に走っています。かなり大きな溝で、深さ2メートル、幅5メートルを測るものもあります。新宮宮内遺跡は東西を川が流れ、その間の微高地(自然堤防)に村の中心があったと考えられています。そこで、大溝は暴れ川であった揖保川からの水害を軽減する防災施設だったのではないかという考えがあるようです。そして、土壙墓、方形周溝墓、円形周溝墓はこの大溝の区画から見つかっていて、それが石鏃の刺さった人骨の犠牲死説の根拠ともなっています。荒ぶる自然の神を鎮めるために生け贄にされたというわけです。

 

 

【8本の大溝】※『新宮宮内遺跡の時代』より転載

 

村の中心は溝の南側に広がります。村の東側を北から南へ流れる川が氾濫によって村に大きな被害を与えないように、水を西方向へ逃がすために溝が掘られたという説があるようなのですが、どうでしょうか。

 

 

【大溝】確かにかなり大規模な溝です。

 

 村の中心地の南側を推測すると、おそらく東側の川と西側および西から流れてくる川が合流していると思われます。この地形をみた時、私は方保田東原遺跡(かとうだひがしばるいせき)を連想しました。私が邪馬台国の拠点集落と考える遺跡です。方保田東原遺跡は、菊池川と方保田川の合流地点の台地上に発達しました。そして、その上流側で2本の川をつなぐ幅8メートルの大溝をはじめ多数の溝が掘削されています。

 

 

【方保田東原遺跡】※山鹿市出土文化財管理センターの模型より

 

 方保田東原遺跡はこの溝により、自然の地形を活かした大環濠集落となっていたと考えられます。溝を掘ったのは、敵国、敵部族の攻撃から村を守るのが主目的だったと思います。

 時代は1〜2世紀新宮宮内遺跡の方が古いと思われますが、新宮宮内遺跡の大溝もそのような目的で掘られたものだと考えられないでしょうか。方形周溝墓の向きは溝に沿っているようにみえます。溝の中堤に墓が設けられたのは確かでしょう。そうならば、村に住んでいた一族の先祖や戦士たちが、その死後も敵から村を守ってくれることを願って、「環濠」の中堤にその遺体を葬り祀ったと考えられるのではないでしょうか。

  

 さて、新宮宮内遺跡一帯はこの後も、地域の中核的な役割を担ったと考えられています。多くの古墳が残っています。

 

 

【近隣の古墳】※『新宮宮内遺跡の時代』より転載

 

 新宮宮内遺跡の北側の山陵には、全長約30メートルの前方後円墳であり三角縁神獣鏡が副葬されていた吉島古墳があります。初期古墳と考えられているので、私見では3世紀末から4世紀前半ぐらいと思われますが、そこには新宮宮内遺跡から伸長した地方豪族の首長が眠っているのでしょうか。そこで思い出したのですが、私が子どものころはよく裏山に登っていましたが、山上で巨石の洞窟のようなものを見た記憶が残っています。いろいろな記憶が入り交じって定かなものではないですが、今思えば横穴式石室だったような気もします。

 

 さて、ついでに天神山古墳(一号墳)にも行ってきました。約1,400年前の古墳時代後期に造られた円墳です。直径約18メートル、高さ約5メートルで、当時の揖保川流域では最大規模だったようです。きれいな墳丘でした。

 

 

【天神山古墳の墳丘】

 

 

【開口部】

 

 

【玄室内部】片袖式です。

 

 最後に、近くを流れる揖保川の風景。鮎釣りが夏の風物詩です。

 

 

 参考文献:『新宮宮内遺跡の時代』たつの市立埋蔵文化財センター 2017年1月発行

 

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